今回は、映画に関する細々としたことを話そう。構成の勉強を始めたばかりの頃、映画の分析を試みる際に「そうだ、一度見ただけで分析できれば、分析効率が二倍になるぞ」とという天啓が舞い降りた。一度見ただけで分析できたら格好いいし、何より効率的で実用的だ。そう思った。
けれどこれは不可能だった。ぼくの力不足とかじゃなくて、理論上不可能だったんだ。分析をするためには絶対に、映画を二回以上見る必要がある。「どうして分析のための映画は二回以上観ることになるのか?」、なぜ「理論上不可能」なのか?
こういった点について話していくとともに、他の細々したことについても触れていくよ。
映画は最低でも2回「観ることになる」
分析の目を鍛えるには、良いサンプルで数をこなすのが近道だ。だけど数をこなす際、気を付けないといけないことがある。それが、「一回見ただけで分析を始めてしまう」という落とし穴だ。
数をこなしたいし、所詮は観ろと言われて観る、勉強のためのサンプルだ。そこまで思い入れもないだろう。
『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』や『マトリックス』のようなコテコテのハリウッド映画ならともかく、『普通の人々』のような物語だと、何度も見る気になれないこともある。そういう時、一回の視聴でパラダイムを書こうと思いがちだ。ぼくも昔やろうとした。
けれど映画を分析する時は、一回目はまず、頭を空っぽにして映画を楽しんでほしい。
「まずは分析の目を忘れてそのまま楽しんでほしい」という考えもあるのだけれど、「そもそも一回で分析しきるのが無理だから、それくらいなら一回目は何も考えずに楽しんでほしい」というのが理由だ。
これには、プロットポイントの性質が関係している。これまで何度も話した通り、プロットポイントは本題や解決への切り替わりポイントだ。でも、何が本題で何が解決なのか、それらはシーンを見た後でしかわからない。
例えばプロットポイントⅡはエンディングに対しての切り替わりポイントであり、プロットポイントⅡにまでに描かれる物語の本筋への切り替わりポイントだ。そしてエンディングが確定していない段階では、プロットポイントⅡを確定させることができない。
プロットポイントⅡそのものに「その物語の何がプロットポイントⅡなのかは、エンディングを知らないと正確に判別できない」という特性があるんだ。なぜかというと、「エンディングへ方向転換した場所こそが、プロットポイントⅡだから」。
これが、「理論上絶対に」映画を二回観ないと分析ができない理由だ。その物語におけるプロットポイントⅡが何であるかは、エンディングを知らないとわからない。プロットポイントⅡを判別する材料として、エンディングが必要なんだから。プロットポイントⅠも同様だ。
結局、一回エンディングまで見ないとその分析は「アテをつける」止まりであり、エンディングを知った上で見直さないと、正確な分析にはならないのだ。
エンディングが確定している状態で初めて、プロットポイントがわかる。「あのエンディングに対して、どこがプロットポイントになっているかな?」と考えないといけないので、一回視聴・一発分析のスタイルでやろうとしても、どのみち二回目を視聴することになるんだ。
もしエンディングを知らない状態で分析をしたのなら、それはプロットポイントの理解を誤っているし、そのパラダイムの正確性はかなりアテにならない。
どうせ一回では正確な分析ができないんなら、頭を空っぽにして楽しんでもらって、二回目の視聴で分析の目を使ったほうが楽しいし、効率的だ。
「プロットポイントはエンディングが決まってないと判定できない」というのは、まだピンと来ないかもしれない。けれど、とにかく大前提として、「分析のために映画を見る場合、最低でも二回観ることになる。だから、一回目は肩の力を抜いて楽しもう」ということを覚えておこう。
ハリウッド映画をサンプルに使う利点
ぱっと見、土台の部分で繋がっていないように見えるシーンもあるかもしれない。けれど、それは適切な言葉さえ見つかれば必ず、多かれ少なかれその内容に関連したまとまりを持っている。
ハリウッド映画をサンプルに使う利点はここにもあって、関連しないシーンは多くの場合、公開までにカットされてしまうんだ。
ハリウッドの偉い人だって、何千万、何億と投資した映画に、「なんかダレるよね」と言われるシーンは残したくない。シーンが厳選されるから、結果的にエンタメとしての質が上がる。上映時間だって決まっているから、余計なシーンを流す暇はない。
予算が多いほどこの傾向は顕著で、あのジェームズ・キャメロン(『タイタニック』、『ターミネーター2』、『アバター』などの監督・脚本家)の『エイリアン2』ですら、20分近いカットを食らって劇場公開されている。
ディレクターズカット版でカットされたシーンがわかるけど、「ここまでカットされるのか……」と戦慄したよ。
とまあ、多かれ少なかれ、各幕は何かしらの内容によってまとまっているんだ。無関係なシーンが残っていない、残りにくいからこそ、サンプルとしての質が良い。何かしらの言葉で、「ここからここまでは、○○について関連した話をしている」と、特定しやすいんだ。
つまり、「わかりやすいサンプル」がそろっているってこと。
ただし、分析の難易度というのはばらつきがあって、予算のかかったハリウッド映画でも、サンプル向きのものとそうでないものがある。
『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』や『マトリックス』を分析するのは、そこまで難しい話じゃない。けど、『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』や『ダイ・ハード』を分析するのは、実は結構骨が折れる。2015年版『ファンタスティック・フォー』のように評判が良くない映画も、構成で失敗していることが多いから避けたほうが無難だ。
分析がやりやすい物語と、そうでない物語がある。練習ではまず、やりやすい物語からだ。トレーニングのために分析するのだから、まずはやりやすそうなものから取り掛かる方が良い。目的は勉強であり、わざわざ難しくする必要はない。
あなたの好きな映画でやってみるのもいいだけれど、まずは経験者の勧める映画からトライする方が、理解を進めやすいよ。
いまのあなたにとって、映画は買った方が安い
ちなみに、ぼくが引き合いに出す映画は、基本的にあまり新しくない。『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』はかなり新しい映画だけれど、あれは知名度が高くて嘘字幕とかレビュー動画とかもあったから、引き合いに出しやすかったんだ。他はなんだかんだ、2000年前後の映画が多い。
レンタルもいいけれど、このころ当たった映画は数が出回っているのもあって、中古DVDが安く手に入るのが利点だ。『マトリックス』とかなら、Amazonで、700~800円出せば買えるし、リサイクルショップやレンタル店の中古販売ではもっと安い(勿論、クリエイターを応援するのなら新品を買おう。ぼくも、『ジョーカー』は新品で買ったよ)。他にも、Amazonプライム・ビデオで購入するというのもおすすめで、ぼくも最近ではよくこっちを利用している。
『マトリックス』は「勉強のために」と一度レンタルしてから何度も借りなおして、結局、近所の匠書店で、ディスクのみを200円で買ったよ。初めから買った方が安かったね。同じことを『ダークナイト』でもやった。
構成を目で見る方法を知ったあなたは、映画一本から得る情報が、今までよりも遥かに増えている。「ああ面白かった」だけで済まないから、何回もいろんな所を確認したくなんだよね。
知識を吸収すると、「じゃあ、あの映画ではどうなってたっけ?」と実物を確認したいことが頻発する。一回見て終わりの娯楽ならともかく、教材として使うなら結果的に、すごく割が良くなるよ。
期間を跨いで見直すことも多いし、1本か2本、参考にする映画を買っておくのがおすすめだ。三幕構成はもともと映画脚本(大元を辿ると舞台脚本)の手法だから、対応するサンプルをいつでも見られるだけで、理解度も、速度も、全然変わってくる。
ただ、もし Amazonプライム・ビデオ で見る際は、カットされている部分がないか軽く調べておいた方がいい。特に日本語吹き替え版は、地上波版が主なのか、カットされているシーンがたまにある。『エイリアン2』で、ディレクターズカット版のインサイティング・インシデントがカットされていた時は、正気かと思った(ちなみに、セントリーガンのシーンもなかった)。
もし候補が思い浮かばないなら、とりあえず、『マトリックス』のDVDをお勧めする。ここでも取り扱ったし、適度な抽象性を持たせつつ、お手本のような三幕構成になっているから、サンプルとしての有用性が高い。それとぼく自身、あの映画が好きで頻繁に引き合いに出すからね。今後の話も理解しやすくなると思うよ。
物語をコントロールする≠物語の面白さを損なう
構成するというのは、物語やキャラクターをコントロールすることなのか?
構成の手法を取り入れようとした場合、こういう懸念はどうしてもついて回る。コントロールされた物語は面白さを損なうのではと、不安になるのだ。「物語を構成する」というのは、キャラクターを型にはめたり、窮屈な枠の中に閉じ込めてしまうような印象を受ける。構成とは、物語の創造性を制限する操り紐なのだろうか?
これについてぼく個人の見解を述べさせてもらうと、「そもそも、物語をコントロールするのと、生まれた物語を捻じ曲げるのは違う」だ。
あなたの中に生まれた物語を、原稿に書かれた文字という形で出力する。この際に、「完成させるのに都合が悪いから」とか、「面白いと思うんだけど扱いづらいから」と変更を加えるのは、生まれた物語を捻じ曲げている。
「書きたいシーンがあったはずなのに、何となく書き進めているうちに、入れる場所がなくなってしまった」というのは、物語を捻じ曲げてしまっている典型だ。
こういうことを繰り返すうちに、あなたの物語から「書きたいと思ったもの」は失われていく。代わりに残るのはツギハギになった物語と、「もっと書きたいシーンがあったはずなのに」という違和感だ。これでは、何のために書くのかわからない。
物語をコントロールするというのは、物語が制御不能になって、その上であなた自身が執筆不能にならないよう、目を光らせるということだ。物語を操作したり、キャラクターを操り人形にするのではなく、監視する。それがオープニングを決め、エンディングを決め、プロットポイントを決めるということだ。
思い出してほしい。これまでパラダイムを書いてきた過程で、三幕構成の手法があなたの物語に制限をかけただろうか?
オープニングとエンディングは、どんな物語にもある。状況設定はどんな物語にもあるし、葛藤も解決だってそうだ。プロットポイントも、インサイティング・インシデントもだ。元々あるものを見つけ、認識するだけだ。三幕構成はこれを言っているだけだ。
「コナン君が殺人事件の推理をする物語を書きたいなら、登場人物の中の誰かを殺せ」と言っているわけじゃなく、「あなたが書きたいコナン君の推理シーンは、登場人物の誰が殺されたことによって生まれていますか?」と、質問しているだけ。
三幕構成は、あなたの中に生まれたシーンを分類して、順番に並べる道具に過ぎない。曖昧だったシーンの順番、シーンの内容を、一歩づつ明確にしていく。その中で不足しているシーンがあれば、それを見つけ出す。ただそれだけだ。
悪魔が取引に使えるような、「これを使えばだれでも簡単に面白い物語が書ける」なんて言う超自然のテクノロジーではないし、面白さの根っこにあるのはあなたが思いついたアイデアとキャラクターだ。
あなたの思いついた物語をすべて掬い上げるため、「完成のために」なんてくだらない理由で取りこぼさないように、物語を捻じ曲げるのではなく管理する。これが構成の役割だ。
以前話した、エヴァの例えを思い出してほしい。
エヴァが暴走しても、碇ゲンドウは放っておく。暴走はあり得た話であり、彼が事態を掌握できなくなったわけではない。使途に負けそうにならない限り、ゲンドウは口を挟まない。エヴァが暴走しても、放っておけば使途を倒してくれる。あたふたする理由がない。
物語が書けなくなるのはまずいが、ひとりでにどんどん面白くなっていくのは、暴走するエヴァと同じだ。不安定かもしれないが、パワーは凄い。物語を完結させられるように見張っておく必要はあるが、監視さえしていれば、勝手に歩き始めてもそれは面白くなっていくだけなので、無理に止める必要はない。
構成は物語を制限するものではなく、物語の方から「なあ作者よ、ところでここはちゃんと決めてあるんだろうな?」と声をかけてもらう道具であり、「おう、そのアドリブのシーンはここに入れてくれよ。いい感じの場所があるだろ?」と言ってもらうための道具だ。
あなたがあなたの物語について、監視という形で責任を持つ。これが物語を構成するということだ。キャラクターを活かし伸び伸びと物語を書くことと、物語を構成すること。この二つは全く矛盾しない。だから、心配しなくていいよ。
長かったBASICステップももうすぐおわりだ。最後に、ここまで読んでくれたあなたに、ちょっとした挨拶をしようと思う。こんな趣味全開のバタ臭い文章じゃなく、まともな口調の挨拶をね。
スティーヴン・キングがプロット嫌いを公言している件についても触れるから、少しはあなたの知見を増やすことにもつながると思う。良ければ読んでくれると嬉しいな。