前回は、物語に最初の動きを与え、まとまりを与えてくれる序盤の守護者、インサイティング・インシデントについて取り扱った。
今回は、序盤を守護するもう一つのインシデントについて紹介していくよ。
ただし、今回のはちょっと厄介だ。重要だけど重要じゃなくて、必要なんだけどそうでもない、けれど覚えておかないといけない。インサイティング・インシデントに比べてずっと厄介な、もう一つのインシデント。
邦訳されている情報がものすごく少ない概念だから、ぼくの解釈も幾分か入るんだけど、最終的にはちゃんと、実用できる形で落ち着けるよ。中々わかりづらい概念なんだけど、どうか読み進めていってほしいな。
守護者の厄介者『キイ・インシデント』
インサイティング・インシデントと双璧をなすもう一つのインシデントが、『キイ・インシデント』(鍵となる事件)だ。
これは少し扱いが厄介だ。なんせ資料がめちゃくちゃ少ない(提唱者であるフィールドは故人だから、新情報を期待するのも中々難しいだろう)。
これはぼくも、紹介するべきか迷った。けれど、フィールドが紹介している内容をできるだけ変質させずに定義を伝え、かつ、「ぼくがこう解釈していて、かつ、現状その解釈で支障は出ていない」という、実体験に基づく保証ということで、紹介させてもらうよ。細々したことを言うけれど、最終的な用法はかなりシンプルなところに着地するから、肩の力を抜いて聞いてほしい(つまり、難しい話をしている道中は気楽に読んでOKってこと)。
キイ・インシデントは言葉の通り、鍵となる事件だ。フィールドはキイ・インシデントを以下のように説明している。
「キイ・インシデントは、ストーリーを視覚的に説明する特定のシーンやシークエンスである」
(Field 2005: p. 158)
色々探したけれど、一番マシにキイ・インシデントについて述べているのがこの説明だった(他に信頼のおける情報があったら是非教えてほしい。マジで見つからない)。ただ、この文章だけで理解するのは到底無理なので補足していくよ。
「ストーリーを視覚的に説明する特定のシーンやシークエンス」というのが、解釈の肝になる。キイ・インシデントは「この物語は、何についての物語なの?」ということを説明するシーンだ。
キイ・インシデントで起こった事件がきっかけで、物語の本筋が顔を出す。インサイティング・インシデントで動き始めた物語がキイ・インシデントに至り、「これが何についての物語か?」を説明する。……と、これでもまだ難しい。
まず、大まかなイメージから入ろう。フィールドは、「2つの事件は関連する」と言っている。一つはインサイティング・インシデント、もう一つはキイ・インシデント。この二つは関連する。キイ・インシデントは、インサイティング・インシデントによって引き起こされる。
インサイティング・インシデントで物語に最初の動きが生まれたよね?けどそれはあくまで物語の最初の動きで、物語の本筋ではなかった。読み手を引き付ける最初の動きがあったとして、そこから物語を本筋に引き込む、物語の中心となるもう一つの出来事があるはずだ。
インサイティング・インシデントによって引き起こされる、物語を本筋へシフトさせる「出来事」。これがキイ・インシデントのイメージだ。
インサイティング・インシデントで最初に生まれた動きが、物語を本題にシフトさせるもう一つの出来事に繋がる。そしてその先は、その出来事についての物語が展開される。
怪異で弟を失った兄が、下水で女の子の靴を見つけることで何かに気づく。戴冠式のために閉ざしていた城門を開いた結果、氷の魔力が暴走し国が雪に包まれる。救世主を探す(探される)という動きが結果として、夢の世界に囚われた男を目覚めるきっかけとなる。
初動を作り出す出来事Aと、物語のメインの流れに引き込む出来事B。この2つの関係が、インサイティング・インシデントとキイ・インシデントだ。
キイ・インシデントについて、フィールドは以下のように説明している。
「インサイティング・インシデントによって、キイ・インシデントは生み出される。キイ・インシデントは、ストーリーラインの中心となる。それによって、ストーリーが前へと転がるのである。キイ・インシデントによって本当のストーリーが表に登場する」
(Field 2005: p. 154)
インサイティング・インシデントによって動き始めた物語が、キイ・インシデントにたどり着き、本当の物語が始まる。これだけ聞くと、プロットポイントⅠに極めて近いものな気がしてくるよね。そして実際その通りだ。
フィールドも「多くの脚本で、プロットポイントⅠとキイ・インシデントは同じである」(Field 2005: p. 155)と言っている。多くの場合、物語の中心となる出来事が起こって、物語が第二幕にシフトする。
では、「多くの場合」ではない場合とは、どういう場合なのだろうか?フィールドの説明からぼくが現状出している解釈を紹介しよう。
元の概念が結構ややこしいからピンとこない部分もあるかもしれないけど、キイ・インシデントの具体的な運用方法は最終的に、かなりシンプルなところに着地する。引き続き、肩の力を抜いて読んでくれて大丈夫だ。
CASE 1:非直線の物語『キル・ビル Vol.1』
まず一つ目は、物語の時間軸とシーンの順番が一致しない物語を書く場合だ。
『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』や『アナと雪の女王』では、オープニングから結構な時間が一気に飛ぶ。けれど、過去に戻ることはない。『マトリックス』では前の2作ほどに派手に飛ぶことはないし、やっぱり過去に戻ることはない。これらを、フィールドは、「時間軸の直線的な物語」と表現している。時間は進むことはあっても、戻ることはない。
反対に、現代のシーンを見せて、過去のシーンを見せて、また別の過去のシーンを見えて、現代のシーンを見せて……、となる物語をフィールドは「時間軸が直線的でない物語」とか、「時間軸が非直線的な物語」と呼んでいる。
例として、『キル・ビル Vol.1』を挙げよう。半分くらいぼくの趣味だが、『パルプ・フィクション』よりはとっつきやすいと思う。
この作品では、時系列が派手に前後する。まずは、この映画のあらすじから説明しよう。
妊娠をきっかけに殺し屋稼業から足を洗った主人公である「花嫁」(通称:ブライド)は、結婚式当日、所属していた暗殺チーム「毒ヘビ暗殺団」のメンバーの襲撃&リンチに遭い、赤ん坊を失った。ブライド自身も昏睡状態となったが4年後に覚醒。赤ん坊を奪われた復讐に、暗殺団のメンバーとそのリーダーであり襲撃の首謀者であるビルを追う。
※日本語字幕付きの予告が無かったので、埋め込みは英語版の予告だ。雰囲気だけ掴んでもらえたらと思う。
ブルース・リーのような黄色い衣装の金髪の女の人が、ヤクザや殺し屋相手に日本刀を振り回す。そういうバイオレンスな映画だ。
で、あらすじをこのように説明したが、実際の映像は時系列を大きく入れ換えて作られている。いわば、シーンとシーンの間が時間軸上で直線状でない、「非直線的な物語」だ。
まずオープニング、白黒画面でリンチを受けたブライドが撃たれ、画面がブラックアウト。イイ感じの音楽が流れ、画面はカラーになる。
ブライドは平穏な町のある家を訪れ、インターホンを鳴らす。出てきた女性の顔面を殴り素手で戦闘開始。彼女は暗殺チームの一人で、名をヴァニータ・グリーン。既に引退しており、家庭があり、4歳の娘もいる。
ブライドは戦闘の末、ヴァニータを娘の見ている前で殺してしまう。「御免なさいね、あなたの前で殺す気はなかった。でもわかってほしいの、悪いのはママの方よ。大きくなって、まだ私のことが許せないと思っていたらその時は、待ってるわ」。車に乗ったブライドは、復讐名簿の「2 ヴァニータ・グリーン」に横線を入れる。その名前の上には、「1 オーレン・イシイ」とあり、既に横線が引かれていた。
次は「第2章血塗られた花嫁」と表示されたのち、結婚式襲撃後の警察の現場検証や、ブライドがいかにして4年の昏睡から目覚めたかといったシーンが展開される(この時点で、時系列は既に入れ替わっているよね。ヴァニータ・グリーンへの復讐を果たしたのは、ブライドが昏睡から目覚めた後だ)。
ブライドのナレーションと共に、復讐の最初のターゲットは、オーレン・イシイであることが語られる。彼女は日本ヤクザ界のボスとなっており、情報が集めやすかったからだ。
それからオーレン・イシイの過去がアニメ映像で流れるが(ここは音楽も相まって、かなり一見の価値アリだ)、ここでは時系列の入れ替えが起こっていないことに注意だ。あくまで、覚醒したブライドが「現在思い出している」情報を映像化したものに過ぎない。フラッシュバックとは、登場人物が今思い出しているものを映像化して流すもので、いわば「現在の表現」だ。見せる時系列そのものを入れ替えているわけではない。
その後、衰弱した体を動かせるようにまで回復したブライドは、伝説の刀鍛冶・服部半蔵に、暗殺チームに復讐するための刀作りを依頼する。ここは覚醒後ということで、時系列は入れ替わっていない。
「ハンゾーソード」を手に入れた後、「第5章 青葉屋での死闘」と表示されたのち(第三章や第四章、第一章はvol.1には無い)、ブライドは最初のターゲット、オーレン・イシイを狙うべく、日本に渡る。再びオーレン・イシイが日本のヤクザ界のボスになっていることの経緯について映像で語られる。が、これも時系列を入れ替えているわけではなく、あくまでブライドが飛行機の中で思い出していること、彼女の現在の頭の中を映しているだけである点には注意だ。
で、後はヤクザ軍団VS日本刀with金髪レディの映画になる。オーレン&ヤクザ軍団VSブライドと、その顛末が描かれる。
そして、ブライドが飛行機の中でノートに名前を書いていくシーンに移る(これが日本へ入る飛行機なのか、日本を発つ飛行機なのかはどちらともいえないため、こういう言い方をさせてもらう)。その一番上には「1オーレン・イシイ」とある。ここまでが、上映されたシーンの順番だ。
出来事の時系列で言うなら、最初に復讐を果たした相手がオーレン、2番目がヴァニータだ。けれど、作中で観客に見せられた順番は、VSヴァニータ→VSオーレンの順に入れ替わっている。さらにここに花嫁がリンチに遭った事件、ブライドの覚醒等が加わり、目くらましのようにオーレンの過去まで挿入される。もうくっちゃくちゃだ。
だけど、これらのくっちゃくちゃな時系列のシーンたちは、ある一つの要素によって関連性を持っている。どのシーンも、ブライドが暗殺チームにリンチを受け、赤ん坊を失ったことに関連しているんだ。
昏睡状態になったことも、そこから目覚めたことも、復讐を誓ったことも、その相手を調べ上げたことも、手掛かりのある者から手にかけていったこともだ。そのどれもが、ブライドが暗殺団にリンチを受け、赤ん坊を失ったことに関連している。
この「関連している」というのは非常に重要で、関連していないシーンを見せられると、観客(つまりは脚本の読者であり小説の読者)には、ものすごい負荷がかかる。とても苦痛で、それが続くと観るのをやめたくなってしまう。「このシーン、要る?」ってやつだ。物語としては要るかもしれないが、読者にそれが伝わっていないのがマズイ。
反対に、関連があることがわかっていれば、時系列をめちゃくちゃにしても問題なく読めるし楽しい。
キイ・インシデントはこの関連付けの、第一段階の括りとなる(あくまで第一段階で、これを個々のシーン単位できちんと関連付ける方法もちゃんと存在する)。
時系列がバラバラであっても、キイ・インシデントがどこかのタイミングで提示されている必要はある。でないと、「これは何の物語か?」ということが、読者にわからなくなってしまう。そして何より、あなたにもわからなくなってしまって、書くことが苦痛になっていく。
キイ・インシデントが特別な力を発揮するのはこんな風に、「非直線的な物語」を扱う場合だ。反対に、こんなことでもしない限り、キイ・インシデントとプロットポイントⅠは、大きく離れないし、同一のものだと思っておいて大丈夫。
「書きたい物語があり、それを時系列を入れ替えたり視点を入れ替えたい場合に、シーンの必要性・関連性をわかっておくために使う」という感じで、混ざっていても「プロットポイントⅠとそれを引き起こした出来事をセットで決めておく」という方針で動いていれば問題は起こらない。
「インサイティング・インシデントが物語の最初の動きを作り、キイ・インシデントを引き起こす。多くの場合、キイ・インシデントはプロットポイントⅠである」ってのは、こういうことなんだ。
「この出来事にまつわる話」と言えるのがキイ・インシデントで、それが多くの場合、いきなり話が切り替わり目的が変化するため、プロットポイントⅠでもある場合が多くなる。こういう具合だ。
CASE 2:非直線2『羅生門』
原作・芥川龍之介、監督・黒澤明の『羅生門』も、キル・ビル Vol.1とは違った意味で、キイ・インシデントが有効な物語だ。時系列だけでなく、視点まで派手に入れ替わる。
ぼくにしては珍しいけど、これは邦画だ。映画のタイトルは『羅生門』だけれど、これは芥川龍之介の『藪の中』を映画化したもので、老婆と下人が出てくる芥川龍之介の『羅生門』とは別物なのには注意してね(小説の方の『羅生門』は、教科書でやった人も多いんじゃないかな)。
『羅生門』では最初、羅生門の下で3人の男が雨宿りするシーンから始まる。杣売り、僧侶、下人の三人だ。杣売りと僧侶はとある事件の参考人として証言をした帰りで、そこで聞いた実に奇妙な話を、下人に聞かせる。
その内容というのが、平安時代の山中で起こったある殺人事件と婦女暴行事件をめぐり、関係者全員の証言が食い違う、というものだった。その真相は……、という物語だ。
物語は検非違使(検察)の前で各証言者が一人づつ、自分の主張をしていくシーンによって進んでいく。検非違使の前に証言者が連れてこられる、内容を語り始める、証言を映像で見せていく、という流れになる。
この物語を構成の目で見た時、まず、時系列がバラバラだ。かつ、『キル・ビル Vol.1』のときとは違って視点もバラバラだ。視点・時系列、この2つを派手に入れ替えるのは、初心者向けの創作指南ではタブーとされている行為だよね。
それはなぜか? ポイントを押さえておかないと、各々のシーンが関連性をもたず、無関係なシーンの連続になってしまうからだ。「自分が今、何を見せれられているのか?」ここがわからないと、文章を読むのは一気に苦痛になる。
例えば、『キル・ビル Vol.1』で「ブライドがオーレンを調べ上げた」という形でオーレンの過去が語られるのと、いきなりナレーションも無しにオーレンの過去を流すのでは、とっつきやすさが全然変わってくる。
これは「この物語への関連性」がよりわかりやすいから、見ていられるのだ。わけもわからないままいきなり、少女が殺し屋となる過程を見せられると、見ている方にはかなり強いストレスがかかる。だって、今何を見せられているのかわからないんだから。
これは執筆時も同様で、自分が今、何について書くのかわかっていないと、同じように書くのが苦痛となる。最初の読者は自分なのだ。何を書けばいいのかわからないまま、次のシーンまでの繋ぎを頑張って書くのはとても苦しい。
では『羅生門』はどうか? 『羅生門』では全てのシーンが、キイ・インシデントに関連している。羅生門の下で話す3人の男、証言者、そして藪の中で起こった出来事。エンディングに至るまで、そのすべてが、藪の中で起こった殺人事件と婦女暴行事件に関連している。
視点・時系列をバラバラに入れ替えても、核となる出来事がある。それが、ぼくらに見せられるシーンに、「今見ているのは、藪の中で起こった殺人事件と婦女暴行事件に関連するシーンですよ」という担保を与えてくれているんだ。
だから無関係に見えない。むしろ、興味を惹かれて引き付けられる。なんてったってそれらはすべて、ぼくらが気にしている、この事件に関係しているんだから!
時代を考えても本当に凄いことだと思うし、そもそも黒澤明の映画はめちゃんこ凄い(個人的に一番のお気に入りは、やっぱり『七人の侍』だ)。けれど、「黒澤明は天才だ!偉人だ!」といって全てを才能で片づけてしまうと、貴重な学びの機会を失ってしまう。
それではテレビ番組のコメンテーターが「○○がヒットした社会的背景」を話すのと同じ視点だ。それはそれで需要のある情報かもしれないけれど、ぼくら書き手が実作に使えるかというのは、また別の話になってくる。
視点・時系列を入れ替えても、キイ・インシデントによって個々のシーンが関連付けられている。だから無関係にならず、意味のあるシーンという感覚を読者と自分自身に与えてくれる。この「まとまってる感」は、視点を入れ替えたり時系列を入れ替える作品を書く上で、書き続ける上で非常に有効だ。そして才能とかセンス抜きに、ぼくらが学べる部分でもある。
芥川龍之介や黒澤明は、時代が認めた天才だ。それを「あの表現が○○を隠喩していてどうのこうの」と井戸端会議をしてモノにできるなら苦労はない。まずは実作に使いやすい部分、システマチックな部分から学ばせてもらおう。
CASE3:過去のキイ・インシデント『普通の人々』
さて、あまりメジャーではない映画が出てきたね。フィールドが紹介していた例だから(Field 2005)、マイナーだけど引かせてもらうよ。
『普通の人々』は、ある家庭が崩壊する様を描いた映画だ。主人公であるコンラッドと、その父と母。一見普通で、何の問題もなさそうに見える家庭。しかし実は、とっくの昔にこの家庭は機能していなかった。
この物語には火薬も爆発も、怪物も冒険もない。その上笑いも無いホームドラマで、どこまでも日常の延長が描かれる。
第一幕ではひたすら、日常の生活を通して「この家庭は何かおかしい。問題はわからないが」という状態が続く。朝食の風景、クラブ活動などを通して、この家庭はどこか機能不全で、うまく行っていないことが示される。
実は、一家がうまく行かなくなったのは半年前、コンラッドの兄であるバックが事故で命を落としたことに原因があった。主人公は何とか兄の死を乗り越えようとする。それは父も、母も同じだった。
しかし、家族とはいえ三人は個々の人間であり、その対応は異なる。兄を失くしたショックで自殺未遂をして精神病院に入っていたコンラッド、あくまで毅然と振る舞う父。同じようにショックを受けながらも、世間体を気に留めることを忘れない母。このすれ違いが最終的に、この家庭を崩壊させる。
プロットポイントⅠは、コンラッドが父の勧めで、精神科のカウンセリングを受けるように勧められ、この出来事を克服したいと告白するシーンだ。ここから、この一家がバックの死を乗り越える物語が始まる。
ただ、バックの死そのものも、彼の死を乗り越えることも、この一家にとっては、ずっと前から始まっていたはずのことだ。
コンラッドだって、ずっと兄の死を乗り越えたいとは思っていた。プロットポイントⅠでは、改めてそれを宣言したに過ぎない。既に物語は始まっていて、このシーンで改めてそれを宣言する。こういうパターンもあるのだ。
結果的にコンラッドは、兄の死を乗り越える。その代償として、母親は家を出ていく。第三幕のシーンは、非常に印象深いよ。父も母も、バックの死に大きなショックを受けている。二人とも同じようにショックを受けているけれど、母は夫の葬儀の服装を気にすることができた。半年たった今、父は息子を失ったのに世間体を気にできた妻のことを、信じられなくなってしまった。
この物語は、バックの死に関わる一家の反応を描くものであり、バックの死が、キイ・インシデントとなっている。バックの死はプロットポイントから遠いところにあり、その世界の時系列としてはプロットポイントⅠの半年前。だが作中で事故のシーンが描かれるのは、プロットポイントⅠよりもずっと後だ。
けれど、キイ・インシデントはコンラッドが兄の死を乗り越える意思表示をするというプロットポイントⅠ、第二幕への入り口を作り出している。物語の世界の時系列と、それを実際に観客の目に見せた時系列が、大きく異なる。
こういうタイプの物語は、あまり一般的ではないと思う。けれど、こういうものもあるということを、頭の隅に置いておいてほしい。
「魔法のような公式は存在しない」
正直、初見ではワケワカメだろう。ぼくも何年もこの概念についての情報を集めているけれど、未だにプロットポイントほど厳格な着地点が見つからない(一応これは、ソースをフィールドに限定しているというのもあるのだけれど)。運用には解釈による補完が必要というのが現状だ。
時系列が非直線的な物語、視点の移り変わり、過去の大きな影響が無関係と思われた人物をプロットポイントⅠに引き込む、色々なバリエーションがある。パターンというより、「物語によってインサイティング・インシデントとキイ・インシデントの関係の仕方は異なる」というのが、もしかすると一番の正解なのかも。
フィールドは細かく語ってはくれなかったけれど、2つの出来事の関係の仕方について、こう言っている。
インサイティング・インシデントとキイ・インシデントは、お互いに関係性を持っている。
しかし、いつも同じではない。それはストーリーによる。脚本を書くことに、魔法のような公式は存在しない。
(Field 2005: p. 157)
もしかすると他の概念のように、ピッタリと捉えられるものではないのかもしれない。フィールドの言うように、「それはストーリーによる」というのが、最も適した捉え方だったりするのかもね。
三幕構成についてよく、「物語のテンプレート」って紹介されていることがあるんだけど、それを理論化して映画界に広めた本家大元が、「脚本を書くことに、魔法のような公式は存在しない」と言っているんだ。嬉しい限りだよね(これで少なくとも、フィールドと同じライン、全米脚本家協会に殿堂入りするまでは、「創作の底が知れてしまう恐怖」を気にせずに済む)。
ただぼくも、あなたに三幕構成を勧める立場上、これで引き下がるような真似はしないよ。これまで何年も情報を集め、三幕構成を使ってきた中で、現状ベターとしている解釈と運用方法がきちんとある。それを紹介しよう。
現状のモア・ベター解釈と運用
「プロットポイントⅠは物語の転換点そのものであり、キイ・インシデントはそこに至るきっかけとなった出来事、インサイティング・インシデントは物語に最初の動きを与え、キイ・インシデントを引き起こした出来事」
これが現状、ぼくがモア・ベターとしている解釈だ。
つまり「プロットポイントⅠとキイ・インシデントは極めて近い位置にあることが多いので、そもそも別物だと思って最初から両方考えておく」という運用だ。
例えば 『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』を書くとして、でビルが行方不明の女の子の靴を見つけるが、この物語の場合、キイ・インシデントとプロットポイントⅠがほぼイコールになっている。こういう時に、「ビル、ジョージィがただの行方不明でないことに気づく」とカードに書く。
が、これに加えて、「下水で行方不明の女の子を靴を見つける」とも書いておく。さっきのままでは、ジョージィの失踪が単なる行方不明でないことを、どんな出来事によってビルが知るのかがわからないからだ。ビルが女の子の靴を見つけたことによって、町を覆う怪異と、少年少女の物語が始まる。
プロットポイントⅠで町を覆う怪異との物語が始まるとして、それを決定的にする出来事が行方不明の女の子の靴の発見。で、そこまで物語を引っ張り、キイ・インシデントの地点まで物語を牽引したのが、「ハァイ、ジョージィ」から始まる、ジョージィの捜索だ。
では、キイ・インシデントとプロットポイントⅠが明確に分かれている物語の場合はどうか?
『ロード・オブ・ザリング/旅の仲間』のキイ・インシデントは、フロドが指輪を受け継ぐことだ。ではプロットポイントⅠは?ホビット庄を出て冒険に出るシーンだ。2つのシーンは、直線でありながらそれなりに離れている。
強大な力を持つ指輪を、滅びの火山の火口へ捨てる。この旅の始まりがプロットポイントⅠであり、旅に出る必要性を生み出したのが、フロドが指輪の継承者となったシーンだ。
「のどかなホビット庄の少年であったフロドが、冒険に出る物語を書こう」と、ひらめいた。うん、これはいい。「それは強大な、力の指輪を捨てる冒険だ」うん、いいね。でも、あと一歩要る。
それが、「のどかなホビット庄に暮らす少年フロドは、どんなシーンによって、冒険に出ることになったのか?」という部分であり、キイ・インシデントだ。
今の状態だと、ただの一般人(一般ホビット)であるフロドが、知らないうちになぜか冒険に出ることになっている。たとえ指輪を捨てに行く物語だとわかっていたとして、なぜフロドが、どのようにして指輪を捨てる旅に出ることになったのか、それをシーンに変換して見せる必要がある。そうすることで、インサイティング・インシデントはキイ・インシデントを経由し、プロットポイントⅠである、冒険の旅へたどり着く。
こんな風に、物語の転換点そのものと、転換点を引き起こした出来事、そしてそこまで物語を引っ張った出来事。この3つを、最初からセットで考えておく。プロットポイントⅠ、キイ・インシデントをあらかじめ別個のものとして用意し、インサイティング・インシデントを決める。現状この運用で、問題になったことはない。
長々と話をしたが、要するに「時系列が直線の物語を書く場合は、転換点そのもの(プロットポイントⅠ)と、それを引き起こした出来事(キイ・インシデント)の2つを決めておきましょう」ということだ。
必要に応じて「非直線の場合や視点を入れ替える場合は、視点を入れ替えたり時系列を入れ替えるとして、その中心となっている出来事は何かを押さえておきましょう。その方が書きやすいし(完結させやすいし)、読者も読みやすいです」という引き出しも使う。
で、ここでようやく話が一周するわけ。インサイティング・インシデントはキイ・インシデントを引き起こし、それが多くの場合プロットポイントⅠである、ってね。
インサイティング・インシデントは物語に最初の動きを与え、それがキイ・インシデント(多くの場合はプロットポイントⅠ)まで物語を運ぶ。この2つが、序盤をつなぎとめる要となる。長くなったが、こういうことだ。
慣れないうちはイメージとして、キイ・インシデント≒プロットポイントⅠくらいに思っておこう。元々四角四面に理解するのが難しい概念だから、今回の説明はここだけ覚えておいてもらえたらいいよ。アバウトでも、実作に使える解釈をしておくのが建設的だ。
インサイティング・インシデントとキイ・インシデント。この2つのインシデントは序盤を繋ぎとめる要になる。特にインサイティング・インシデントが抜けていると、序盤は簡単に壊れてしまう。よーく復習してね。
BASICステップで学ぶ新しい概念はこれで全部だ。ここからは、学んできた要素をどうやって使っていくか、その例を見ていこう。