日常シーンをどこでいれるかについてだ。これについてはある程度、前章で触れたね。第一幕か、第二幕前半だ。その部分を、もう一歩踏み込んでカバーしておこう。
「日常シーン」という括り方が、構成の視点においてかなりズレた分類だというのは、以前話した通りだ。
「日常シーン」という分類があるのではなく、「状況設定に日常を描いているシーンを使う」とか、「新しい世界の説明のために日常を描いているシーンを使う」、「『もし○○が○○だったらどんなシーンが生まれるか?』=『お楽しみ』の一環として、日常を描いているシーンを使う」という具合だね。
それらが入れられる場所は、概ね2つ。第一幕と第二幕前半に配置される。
「日常シーンを使って何を見せるか」を、意識してみると、その判断はつけやすい。
日常シーンを使って主人公の情報を説明するのが『チャイナタウン』。「もし○○が○○だったら」の『お楽しみ』としての日常シーンなら、『マトリックス』や『君の名は』。このタイプは、突入した第二幕、新しい世界についての説明を兼ねることが多い。
もし○○が○○だったらどんな世界だろう? どんなルールがあるだろう?どんな生活をしているだろう? こういう疑問、期待に応えるという意味での『お楽しみ』であり、同時に、第二幕の世界の説明でもある。いうなれば主人公たちとは別の、世界設定についての『お楽しみ』というわけ。
そこでは、現実世界の食事や仮想世界との差異、機械が人類に差し向けた、現実世界の兵器についての話や、夢の中で入れ替わっていた二人のルールや法則、その生活に順応していく様子が描かれる。「こういうキャラ・設定が、こういう状況に突入したらどんなシーンが見れるだろう?」という期待に応えていくわけだ。
たまにだけれど、日常シーンが第二幕の後半に来ることもある。ITで、ルーザーズクラブがペニーワイズに負けた後の生活を描いたりね。けれどこれらのシーンだって、日常生活のために日常生活を描いているわけではないでしょ? ペニーワイズに負けた後のビルたちの姿を観客に見せるっていう、目的があるんだ。
こういう風に、第一幕や第二幕前半に配置されていない日常シーンについても、構成上どういう役目を持っているかを考えることで、その場所に配置されている根拠が見えてくる。
『ショーシャンクの空に』では、刑務所の中で20年の時が流れる。映画のほとんどは、刑務所の中の生活が描かれるんだ。
朝食、キャッチボール、着替えの受け取り、洗濯仕事、工場の屋根の塗り替え、作業後の休憩、刑務所の中での趣味、映画の時間、屋外での整地作業、所持品の抜き打ち検査、図書館の仕事、アンディからレッドへのささやかな贈り物、公共事業に参加、新入りの受刑者、先生となったアンディ、アンディの悪い仕事、休み時間の会話、アンディが居なくなったあとの刑務作業……。刑務所から出た後も、レッドの生活が描写されている。
この物語はレッドとアンディの関係の物語で、色々なことが起こる。そしてそのどれもが、刑務所の中の日常を通して語られる。
これらをすべて「日常シーン」としてくくってしまうと、シーンの分類はめちゃくちゃになってしまうんだ。
日常を通して、そのシーンがどういう役目をはたしているかが重要なのだ。それが状況説明なのか、お約束に応えることなのか、物語を前に進めることなのか、何かのきっかけがその日常から生まれるのかで、配置される場所は全然変わってくる。
状況設定としての日常か、『お楽しみ』としての日常か、この判断をつけるだけでも、かなり楽になるよ。