先に断っておこう。映画、『フロム・ダスク・ティル・ドーン』の、クリティカルなネタを割るよ。もしあなたがネタバレなしで楽しみたいタイプなら、先に観ておこう。
さて。
よく言われていた話で、「ラーメンを頼んだのに蕎麦を出された気分」というのがある。
スローライフがスローライフしなかったり、無双系が無双しなかったり、というアレだ。成人向けだと、いきなり受け攻めが逆転したりもそうかな(おねショタ逆転って、ミッドポイントやプロットポイントⅡの一種だと思わない?)。
この現象は、第一幕の内容と第二幕の内容が乖離するのが原因だ。第一幕で設定した前提に、第二幕で答える。こういう形で物語が作られる以上、乖離がひどいと読者は怒る。
第一幕で殺人事件が起こったのに、第二幕でかめはめ派を打ち始めたら、誰だって困惑する。第一幕を読んだ時間を返せとなってしまうよ。
『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のことを鬱展開の塊みたいに言ってきたけれど、ぼくの紹介に興味を持って、いざ観てみたら「ハートフルで温かい物語でした」、では頭にくると思う。
似た話で、『シャークネード』や『スネーク・フライト』で、いつまで経ってもサメもヘビも出てこなかったら、「話が違うじゃないか! サメやヘビを出してよ!」と、言うと思うよ。
低予算映画あるあるで、登場人物が喧嘩ばかりしているというのがある。怪物をたくさん出すと予算がかかるから、登場人物が喧嘩して、状況を悪化させるのだ。
概ね不評なのだが(Vtuberの朝井ラムちゃんや型落ちお姉さんのように、その不評なんだかんだ楽しむ人種はいるけど)、映画において予算のファクターは無視できないから、ある程度は仕方ない。けれどこっちとしてはやっぱり、怪物が見たいのだ。登場人物の喧嘩じゃなくね。
読者としては、料理の注文を第一幕で済ませているのだ。注文したのはラーメンであり、鬱展開であり、サメでありヘビだ。第二幕に入ってようやく食べられると思った料理が、注文と違ったら、それは怒る。料理の場合はお金、読者の場合は時間と期待を払っている。
で、本題。そういう中でも、特殊なタイプは存在する。
それが『フロム・ダスク・ティル・ドーン』。脚本は、クエンティン・タランティーノ。おかしな脚本書いたり、特殊な表現をすることが多いクリエイターで、特例系の話ではよく話題に上る(昔のことだが、SoftbankのTVCMになぜか出ていたので、顔を知っている人もいるかもしれない。にしても、なぜ出ていたのだろう?)。
あらすじはこうだ。ジョージ・クルーニー演じるセス・ゲッコーと、タランティーノ本人が演じるリッチー・ゲッコーは、強盗を生業にするプロ。セスをの脱獄を手引きした弟のリッチーと共に、兄弟そろって警察に追われている。
ところ変わってレストランでは、一人の男と、その娘と息子が、話し合っていた。妻(二人の子供にとっては母親)を失って、キャンピングカーで旅行に出ているという。彼らの名字はフラー。フラー一家は、レストランを出てモーテルに入る。そのころゲッコー兄弟は同じモーテルで、警察の手を逃れて国境を超える移動手段と、人質を探していた。
ゲッコー兄弟に脅され、人質にされたフラー一家。キャンピングカーに乗った5人、銃を突き付けられたフラー一家は、無事に生き残ることができるのか……。という話だ。
……途中まではね。
警察を撒き、国境を超え、あとは逃亡を手引きしてくれる業者と落ち合うだけ。周囲にあるのは砂と谷と道路だけという、辺鄙な場所にある大きなバーが、その待ち合わせ場所だった。待ち合わせは翌朝。一晩をそこで超すだけで、すべて丸く収まるはずだった。さあ、朝まで飲もう!
ここまでが、再生時間の半分だ。銃と脅しによって作られた、サスペンスの世界だ。
そして事態は一変する。実はそのバーにいた従業員やダンサーは、皆、古代から生きる吸血鬼だったのだ!
勿論、吸血鬼の存在を匂わせるシーンなぞ、それまで1秒も出てきていない。
何を言っているかわからないかもしれないが、ぼくだって最初観たとき、何を観ていたのかわからなくなった。大学時代の後輩に勧められたのだけれど、レンタルするときはパッケージ裏の情報とか、一切の前情報を見ずに借りるよう、強く念押しを受けたんだよね。
こうしてサスペンスだった物語が一変、吸血鬼との闘いが始まる。大量の吸血鬼を前に、5人は生き残れるのだろうか……。
ミッドポイントで危険度を上げたと言えばそれまでだが、かなり極端な例だ。今まで積み上げてきたサスペンスの雰囲気を完全にぶち壊して、吸血鬼軍団との闘いが始まる。
『タイタニック』も第二幕後半から物語の種類が変わるけれど、タイタニック号が沈むことは、第一幕で説明済みだった。対して『フロム・ダスク・ティル・ドーン』では、何の前触れもなく、サスペンス映画がモンスター映画に変化する。
映画では予告編があるし、レンタルでもパッケージの裏にあらすじは書いてある。それに最悪、「脚本を書いたのがタランティーノなら、こういうものだろう」と受け入れてしまえる(作家性一つとして捉えられる例で、この人は本当に特殊だ)。
だが小説、とくに連載モノでこれをやると、流石にまずい。読者からすればテコ入れと変わらないし、これまでの積み木を作者に蹴飛ばされるのだ。たまったものではない。
半年追いかけた大河ドラマでいきなり、「来週からは、暗黒の力で復活した織田信長の率いる妖魔軍団と戦います」なんて言われたら、「この半年は何だったんだ……?」と思われても仕方ない。
タランティーノの映画の代表作、『パルプ・フィクション』は、公開当初、かなり賛否が分かれたそうだ(特殊な構成になっている映画で、クエンティン・タランティーノという人物は、こういう前衛的なことをよくやる人物なのだ)。
シド・フィールド曰く、『パルプ・フィクション』は、「大好きになるか、大嫌いになるかのどちらかであった」という。
こう話していると、『パルプ・フィクション』や『フロム・ダスク・ティル・ドーン』などの制作が大博打だったように見えるかもしれない。けれど小説と映画では、受け手に届くまでのプロセスが違う。
映画の場合、制作の前段階、製作費を出す前に、その映画に投資した額を回収でいるかどうか、内容のチェックが入る(というかチェックが入ってから、偉い人に回すかどうかを決める)。つまり、査読者がいるわけだ。査読者がOKと言ったなら、回収の目途は立っている。この段階で、かなり厳重なチェックが入っているわけだ。
それに比べて連載小説の場合、査読者はおそらくいないし、いたところで、何千万、何億円にもなる製作費を預けられるかの判断なんていう、プレッシャーと精度を日々求められているわけではないだろう。
二者の状態は違っていて、後者は本当に大博打になる。投入したリソース、つまりあなたが執筆にかけた時間を回収したいと思うならば、避けた方が無難だ。
読者を裏切ることを主眼に置いたものならば、それはとても効果的だけれど、裏切られたくないという読者を敵に回すことは、覚えておかないといけない。タランティーノですらそうだったのだ。
第一幕で準備をして、第二幕前半の内容を期待させる。この原則を守ることが、「ラーメンを頼んだのに蕎麦を出された!」と言われないために大切になる。覚えておいてほしい。