読者が『お楽しみ』に何を求めるかで、話は全然違ってくる。
鬱展開をウリにしたいのなら、読者が『お楽しみ』に鬱展開を求めるようにすればいい。つまり、第一幕がカギになる。もう一度、先ほどの図を見てみよう。
第一幕は期待させる部分で、第二幕前半がそれに応える部分だ。この時、「物語の楽しい場所」の「楽しい」を何と捉えるかが、大切になってくる。
早い話、鬱展開が読者にとっての楽しみになるよう、第一幕を作るのだ。
第一幕は、状況設定する部分だ。ここできちんと、「この物語は鬱展開ですよ」と言っておけば、読者は、その鬱展開を期待して、読み進めるようになる。
反対に、状況設定で鬱展開を期待させないのに、第二幕でいきなり悲惨な話が始まったら、読者は面食らうだろう。さっきも言ったが、『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』であの第一幕をやった後、ペニーワイズが巨大ミンチマシーンに変身して、大笑いしながらリッチーを肉片に変え、ビルが友を失った悲しみに打ちひしがれてしまったら、それはもう別の映画だ。
『ハイスコアガール』の押切蓮介のホラー漫画、『サユリ』は、中古のマイホームを購入した一家が、怨霊に襲われる話だ(暇ならブックオフへ行ってみると良い。ペーパーバック版の中古漫画が山ほど置いてあり、驚くほど安価に多くを学べる)。
主人公は高校生で、家族で引っ越すところから物語が始まる。
第一話の終わりで主人公の父親が亡くなり、第二話の最初で父親の葬儀をやっている。何の抵抗もできないまま、正体不明の存在に弟、祖父、姉、母親を奪われた。痴呆の祖母と主人公しか、家には残っていない。『サユリ』は全十五話、そのミッドポイントにあたる八話でこの有様だ。
ひたすらやられっぱなしで、悲惨もいいところである。酒・ドラッグ・セックスという禁忌を侵した、十把一絡げのアホ大学生が山小屋で犠牲になるのとは訳が違う。家族は本当に、何も悪いことをしていないのだ。
なぜこれでOKなのか?それは、この物語がこういう物語だからである。もっと言うと、「こういう物語」だと、物語全体から見た第一幕、状況設定の段階で示されているからである。
この家には何かいる、それが何かはわからないけれど、何かおかしい。そしてその何かが、父を奪った。姉の取り乱しようは尋常でなく、祖父は何か、心霊的なものの存在に気付いている節がある。第一話で最低限の状況と人物を設定し、第二話が始まってすぐに「この物語は家族に陰を落とすし、何がとはまだ言えないけれど、何かしらの存在が主人公の家族が命を奪われていく話ですよ」と、示しているのだ。
女の幽霊が視えるとステップメイトに指摘されてから、物語は第二幕へと入り本格化する。怨霊はより活発になり、主人公の家族を立て続けに奪う。
主人公にとってこれは、ほんとうに悲惨な事件だ。けれど、読者にとってはどうだろう。家族から父親を奪った存在とは何なのか、どんなことをこれからしてくるのか、どんなホラー展開が待っているのか、気になっているはずだ。気が滅入るような陰惨な事件であっても、これからどうなっていくか、読者は見たいのだ。
この時点ですでに、読者にとっての『お楽しみ』は、楽しい家族生活でも、怨霊をばったばったとなぎ倒していく主人公の姿でもない。状況設定を終えた段階で、読者が楽しみにしているのは怨霊がどれだけ暴れまわるかであり、周りが犠牲になり、主人公がそれに耐える姿である。そういう前提を第一幕で示して、物語の本筋が始まったのだ。
「これから怨霊に苦しめられる姿を描くきますよ、大暴れするから期待しててくださいね」
「OK、楽しみにしてるよ」
暗にこういうやり取りが、第一幕の終わりでは行われている。この場合、あなたが書くべきは大暴れする怨霊であり、苦しむ主人公なんだ。
ここで「NO」という人は、そもそも、第一幕の段階で、「ちょっとこういうホラーは自分にはキツい……」と、読むのをやめるだろう。
物語が終始この調子なのか、それともミッドポイントで逆転の兆しが見えるかは、その物語による。
『サユリ』は逆転の目を見つけるパターンで、ずっと痴呆だった祖母がもとに戻り、「このままで…いいんか…?やられ損のままでいいんか……」と、主人公に活を入れる。お祓いを勧めるご近所さんに「祓って済ませるつもりはねぇ」と言い切る、凶悪な目つきのおばあちゃんだ。ここから抗戦が始まる。
どう抗戦するかも、うまみの一つだ。ホラーは、怪物を倒すまでがホラーである。恋愛モノだって、二人がくっついて、それが誰にも引き裂けないことを証明するまでが恋愛モノだ。
前回、『お楽しみ』と『すべてを失って』は対になるという話をした。第二幕前半で怪物にコテンパンにやられた主人公だったが、祖母の覚醒によって、反撃を始める。主人公は回復し始め、怨霊の生前の名前まで判明する。『お楽しみ』でひどい目に遭ったから、『全てを失って』では、反対に優勢となるわけだ。
反対に、同作者の漫画、『ミスミソウ』は、鬱展開の酷い第一幕から、『お楽しみ』で反撃が始まる。
都会から越してきた主人公の女の子が、凄惨ないじめを受ける。靴を隠され、机に中傷の言葉を彫られ、ごみ溜めに落とされる。先生は頼りにならない。心配してくれる家族と、心配かけまいとする主人公、健気な妹。第一話はこう締めくくられる。「それから数日後に私の家族は焼き殺された」。家が燃えている画で、第一話が終わる。
この物語がろくでもない方向に行くのは、何となく察しがついたと思う。都会者をいじめるにせよ、限度というものがある。ここからハートフルストーリーにはならないだろう。
反対に、この第一話を読んでこの先に、どんな展開を期待するだろうか?凄惨で吐きそうなくらいの目に遭って、それでも頑張る姿なのか、復讐鬼として覚醒する姿なのか、登場人物の精神が限界となってしまう姿なのか。楽しい話を読みたいなら、この時点で他を読むだろう。
反対に第一話がこれで、次から楽しい話をやられても、読者としては反応に困るし、いつかそれが壊されることを予感したまま、読み続けることになる。
なぜか?だって、そんな空気じゃないもの。「そんな空気じゃない」をどこで設定していると思う?第一話なんだ。
第一幕の最後、主人公は、いじめっ子に自殺しろと迫られ、頭から灯油を浴びせられる。言われても黙っていた主人公だったが、火をつけられた母親の姿について言及されたことで、堰が切れた。落ちていた釘をいじめっ子の目に刺し、鉄パイプで殴り、逃げるいじめっ子を包丁で斬りつける。第一幕で、十分悲惨な目に遭ってきた。意思を見せ、反撃が始まる。狙い狙われる、混沌の世界に突入するのだ。
第一幕でいじめられ、家に火を付けられ、灯油を浴びせられ、反撃していじめっ子の命を奪ってやった。今さら、ほのぼのハートフルな話にはならない。物語は一線を越えた。もう、いじめに耐える話ではなくなったのだ。
この状態から、ゆるいギャグや暖かい学園生活を流されても、そっちの方が困る。第一幕で積み上げてきた期待に、どう応えるかまで示してくれたのに、ほかのことを見せられては、怒り心頭だ。「そういう流れじゃないでしょ!?」となってしまう。読者がここまで読み続けてきたのは、暖かい物語が読みたいからではない。
「物語の流れ」なんて言うとまたこれも曖昧な言葉だけれど、その「物語りの流れ」というのは今まで設定してきた物語の方向や、物語の前提のことだ。
インサイティング・インシデントを使って生まれた動きが、徐々に大きくなってプロットポイントⅠに到達する。その物語の動きが流れであり、ここをちゃんとセッティングしてやることで、どれだけ憂鬱な展開でも、扱うことが可能になる。鬱展開をウリにしたいのなら、鬱展開を期待させればいいのだ。
登場人物にとって辛い展開かどうかではなく、読者にとって辛いかどうか。ここが鬱展開を扱う焦点となるわけ。
悲惨な目に遭う物語を読みたい人にとって、第二幕前半でどれだけ主人公がひどい目に遭っても、それは期待通りだ。登場人物にたちにとっては、気の毒だけれどね。
「鬱展開をウリにして、鬱展開じゃない物語と同じくらいの人気が欲しいです」と言われても、そんなのは無理だ。
鬱展開をウリにした物語を書きたいあなたが、鬱展開を読みたい人に物語を届けることは、構成によって可能だ。けれど、楽しい物語を読みたい人に届けることはできない。
これは単に、市場規模と需要の問題だ。恋愛映画の大ヒットは『タイタニック』になれるが、ゾンビ映画の大ヒットは『ワールド・ウォー Z』止まりである。
興行収入は、『タイタニック』が262億円、『ワールド・ウォー Z』は19.3億円。ゾンビ映画を観る人は、恋愛映画を観る人ほど多くない。それだけの話なんだ。
人気というのはどうしても、観たがる人、受け入れる人の数に大きく左右される。それと作品そのものの出来は大きく関連しない。押井守の『イノセンス』は興行収入20億円だが、興行収入193億円の『もののけ姫』に、作品として劣るとはとても思えない。差が生まれたのは、観に行った人の数が多く、多くの人に受け入れられやすかったためだ。
金に困っていた文豪の作品は今でも語り継がれるが、メディアミックスされて映画化までされた売れっ子作家が、今後100年語り継がれるかはまた別の話。
取れる手段としては、「鬱展開を期待させつつ、観に来させる」という手だろう。『ジョーカー』がそのタイプで、予告編を見る限りあの映画では多分、ろくなことが起こらない。
(追記:ああ、起こらなかった)。それでも興味が湧くし、見に行きたいと思ってしまう。
まあこれも、どんなひどい目に遭って、それからどうやってただの人が怪物になるのだろうというのを見に行くから、近いものではあるんだけどね。
けれど、「ただの人が怪物になってしまう物語なんて、観たくない」という人の足を、映画館へ向けさせることはできない。
また、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』という、デンマークの有名な鬱映画がある。
これは本当に観るのが辛い映画で、鬱展開が苦手な人には絶対にお勧めしない。見ているだけで辛くなるし、救いはない。ぼくも何度も休憩を挟みながら観た。
あらすじはこうだ。遺伝性の病気で近々失明することがわかっているシングルマザー、セルマ。息子はまだ元気だが、自分と同じように視力が衰えていき、いずれは失明する。セルマは息子の目の治療費を工面するために(遺伝的に目に疾患を抱えていることを、息子には伏せている)、毎日遅くまで懸命に働いていた。
昼勤務、夜勤務に加えて、内職までしている。彼女の目はかなり悪くなっており、工場での仕事も、なんとかだましだましやっている状態。そんな時、住む場所を貸してくれている隣人から、深刻なお金の相談をされる。一見裕福だった彼の家計は、妻の浪費で火の車だったのだ。命を絶つことすら考えている彼のことを思って、セルマはさらに仕事を増やす……。
ああもう、ロクな展開にならないのは目に見えている。けれど、この物語を観る人、観たいと思う人は、この先が気になっているのだ。彼女がおそらく悲惨な目に遭うだろうことも、わかっている。その上で観るのだから、作者としては、それに応えないといけない。
鬱展開をウリにしたいのならば、第一幕の状況設定で、「鬱展開をやる物語だから、楽しみに待っててな!」ときちんと伝えておくことが、大切なんだ。
この段階であなたの役目は、「ウケるかどうかわからない鬱展開をやる」とか「読者を減らさないために、鬱展開をやりたいけど我慢する」ではなく、「読者が期待した鬱展開をちゃんとやってあげる」ことに変わる。
鬱展開をウリにしたいなら、ちゃんと鬱展開を期待させる。それをきちんと第一幕でやっておくことが大切になるんだ。
もし、鬱展開を書きたいのに読者人気を気にして変更してしまったのなら、それは物語を捻じ曲げている。鬱展開をウリに書きたいのなら、そうすればいい。第一幕でちゃんと準備すれば、鬱展開が好きな読者は、鬱展開を楽しみにして読んでくれる。
ちなみに、鬱展開を売りにした物語を書く気でないなら、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ついては本当に観なくていい。いや、観てほしいよ! けど、本当に辛い映画なんだ!
観るにせよまず予告編を確認して、観ても大丈夫そうか診断してからだ。