面白いエピソードがある。以前に軽く触れたね。久々のスティーヴン・キングだ。
キングは原稿を完成させてから、自身で推敲するだけでなく、何人かの親しい人に読んでもらってから、内容を修正するスタイルを取っている。
その時、キングは『骨の袋』(ホラー小説だ)を書き終わったところで、感想を貰っている相手は、自分の奥さんだった。
主人公、マイクについて、キングは様々なことを書いた。小説家という職業、亡くなった妻、その家族、夏に買った別荘、その別荘の過去の出来事……。問題になったのは、マイクが妻を亡くし、悲しみのせいで、一年ほど小説が書けなくなり、地域のボランティアに出るという下りについてだった。
キングの奥さんは、「そんなこと、どうだっていいじゃない」と切って捨てた。「私が知りたいのは、マイク・ヌーナンの悪夢のことよ。町から酔っ払いのホームレスを一掃するために、市議選に打って出るって話じゃない」
キングは反論した。マイクは小説を書けなくなっている。「その状態は一年以上続くかもしれない。だとしたら、そのあいだ、何かをしていなきゃならないだろ」
「それはそうかもしれないけど、だからといって、読者が退屈しなきゃいけないってことにはならないわ」
結局、キングは2ページほどあったこのくだりを、2行に変更した。
キングは著書の中で、この変更について「『骨の袋』は三百万部売れ、読者から四千通以上の手紙が寄せられたが、“マイクは書けなくなった一年のあいだ、地域でどんなボランティア活動をしていたか、わからないじゃないかこの間抜け野郎!”と書かれていたものはこれまでのところ一通もない」と語っている(king 2000: p. 304)。
読者が退屈していい理由にはならない、という奥さんの声は当然だが、このエピソードからは、もう一つ教訓を得られると思う。
作者が重要だと思っていても、読者もそれを重要だと思っているかどうかは、別の話だ、ということだ。
キングが重要だと思っていた、マイクが書けないでいた一年は、読者にとってはそう重要ではなかった。そしてそれは、奥さんに読んでもらうまではわからなかったことだ。
創作とはこんな風に、ある程度出たとこ勝負な面が、どうしようもなくあるのだ。
あなたがうんうんと悩んでいることがあるとして、それが物語の大局に影響しないなら、いつまでも悩んでいても仕方がない。キングが手紙を貰わなかったように、あなたも、そんなことを言われないかもしれない。
例え言われたところで、キングのように直せばいいのだ。より良くなった作品を、さらに多くの人に見せることになるだけだ。どこにも問題などない。
細かい部分にこだわるのは大切だ。神は細部に宿る。けれど、良い意味でも悪い意味でも、自分の執着と読者の執着する場所が異なることはある。
最終的な判断はあなたが下すしかないが、こういうこともある。こういう事を知っておくと、推敲のとき、少しだけ気が楽だ。
自分の執着している部分を、読者も強く執着するわけではない。ならば、いつまでも細部にこだわらず、その部分の直しを切り上げることも大切なのだ。