会話文は得意だけれど、地の文が苦手……、という声を結構聞く。
「キャラクターは活き活きしているんだけど、地の文はどうやって書けばいいのかわからない……」と。
はっきり言うが、地の文については、気にする必要はない。
これは私見だけれど、小説を読む側や評価する側に、地の文を神聖視しすぎるきらいがあるように思う。「台詞は簡単で、地の文は、難しい。だから地の文をうまく書ける人は素晴らしい」こんな理屈でないことを祈りたい。
地の文が美しく書けるのは、そりゃ確かにすごいことだ。そこに異論を挟む気はない。舞城王太郎が大好きなくらい、地の文の力は偉大で、凄まじいものだと信じている(ぼくはなんだかんだ、創作の神秘というものに絶対の信頼を寄せているのだと思う)。
けど地の文が上手く書けるかどうかと、小説が完成するかどうかは、一切関連しない。あなたにも経験があるかもしれないが、神がかり的に良い文章を一瞬(もしくは数時間)書けたからといって、長編が完成するわけではない。
地の文の美しさはプラスアルファのおまけ、と考えておいた方が生産的だ。まず第一目的として、「何が起こっているかを読者に不足なく伝える」というのがあり、それを第一に考えるべきなのだ。
誰が何を言っていて、今映っているシーンは、どこで、どんなものがあるのか。特に見せたいものと、見せておかないといけないもの、この条件を満たしさえすれば、細かいことは気にする必要はない。
というのも、地の文というのは、書き手の慣れや好みに依る部分が大きいのだ。
ぼくは「自分の文体を持っている」と胸を張って言えるけれど、そうなるまでに10年近くかかった。数を書いていく中での、「あ、こういう文章良いな」とか、「このくらいの方が好みだな」という、実作の中での小さな変化が、文体を作り上げた。
劇的な何かがあって、ある日突然、地の文の書き方が突然変異を起こした、ということはなかったのだ。短期集中で悩んだからといって、目の覚めるブレイクスルーを得られるものではない。
ぼくはさっき、「生産的だ」という言葉を使ったけれど、それはここに起因する。地の文の書き方についてうんうん悩むのは、正直、非常に割が悪い。注いだエネルギーが実を結ぶまでが長いんだ。
地の文が変化するには、時間がかかる。プロットポイントを決めてミッドポイント、サブコンテクストを決めてピンチ、BS2も使って、はい一丁上がり、とはいかないのだ。
極論、地の文の書き方に納得するというのは、絵師さんが自身の納得する画風を見つけるのと、同じだけの時間がかかると思っておいた方がいい。ならばまずその第一歩として、当面の間、デッサンの狂っていない絵を伸び伸びと書きながら、模索していくのが、現実的な選択だ。
そうしていく中で、胸がどんどん大きくなったり、特徴的な髪型が増えていったり、線の太さが変わったり、さらに胸が大きくなったりして(やったぁ!)、好みが反映されていく。そして固有の絵柄になっていく。
それに、そもそも理想の地の文がハッキリ頭の中にあるなら、それを書けばいいのだ。
書けないのなら、まだ「理想の地の文」というのが、自分自身の中で具体的に決まっていないと解釈しよう。決まっていないものを形にすることの大変さは、あなたもよく知っているはずだ。そこにエネルギーを投入するのは、好手とは言えない。
まずは不足のない、シンプルな文章を書けばいい。
スティーヴン・キングは、著書の中で、文章を書く際の注意点として、「副詞を省け」と言っている。
「そこへ置いて!」と、彼女は叫んだ。
「かえしてくれよ」と彼は懇願した。「おれのじゃないか」
「冗談じゃないわ、ジェキル」と、アタースンは言い放った。
(king 2000: p. 168)
ここに副詞を加えると、
「そこへ置いて!」と、彼女は居丈高に叫んだ。
「かえしてくれよ」と彼は卑屈に懇願した。「おれのじゃないか」
「冗談じゃないわ、ジェキル」と、アタースンは横柄に言い放った。
(king 2000: p. 168)
「これだけはやめてくれ、お願いだ」と、キングは言っている(king 2000: p. 169)。
じゃあ反対に、なんと書けばいいのか?
キング曰く、すべて、「言った」でよいのだという。「“彼は言った”、“彼女は言った”、“ビルは言った”、“モニカは言った”、で充分だ」と(king 2000: p. 169)。
これが創作の真実かどうか、それはわからない。キング自身も、自身の過去の作品についてそれを実行しきれているかという問いに対して、「私もなみの罪人に過ぎないことがわかるだろう」と言っている。
文章を書く時は、「完成させるためには、不足ない文章があればいい」という事を、常々意識した方がいい。
地の文とは、画面に映っているもの、起こっていることを伝えさえすれば、それでいいんだ。
「副詞を使うのは人の常、“彼は言った”、“彼女は言った”と書くのは神の業である」と、キングも言っている(king 2000: p. 172)。あるものを書けばいいのだ。
ぼく自身、誰かが何かを言ったなら、「○○は言った」と書いている。会話が続いて、「言った」だらけになりそうなら、発言者がわからない台詞の後にだけ「○○は言った」とつける。それ以上細かいところは推敲の段階、自分の好みが反映される段階になってから考える。
悩むくらいなのだから、地の文について、どうすればいいか決めあぐねているのだろう。なら、不足なく書けばいいのだ。大外しはしないし、好みがあるのなら、その都度変えればいい。
少なくとも「言った」のバリエーションを探してうんうん唸り、手が止まるくらいなら、神の業を借りた方が、ずっと早くて、読者にもわかりやすい。その「言った」が、どういう「言った」なのか、読者がイメージする余地も生まれて、さらにお得だ。
というか、そのイメージをこれまでの物語から想起させることこそ、地の文の持つパワーであると、個人的には思う。
『アルジャーノンに花束を』を読んだことのある人は、思い出してみてほしい。エンディング間近、成人センターへやってきたチャーリーを見て、キニアン先生は泣いて、教室から出ていく。そこについての説明はないが、キニアン先生がその時どんな気持ちだったか、今までの物語からは、絶大な破壊力を以て想像できる。気の利いた文章と感動は、必ずしもセットではない。
誰かがそう言ったことを読者に伝えたいから、「言った」と書く。それでいいのだ。