早速、構成のカンニングペーパーについて紹介しよう。パラダイムが少々不安定でも、「現在自分が思いついているシーン」からパラダイムを逆算できたり、サブコンテクストの指針がいまいち固まらないときに使える抜け道だ。
カンニングのカギ『BS2』
前章で話したように、サブコンテクストは個々の作品ごとに割り出される「どこに、何を書けばいいか」の指針だ。
それにプラスして「とりあえず物語のこの辺には、楽しい話題について扱えばいい」とか「この辺には、サブキャラの話を入れればいい」という指針があれば、もっと便利だよね。
シーンが足りない、サブコンテクストも、いまいちはっきりしてこない、そういうときのガイドラインになるんだ。
映画脚本の手法(古くは劇脚本)として存在していた三幕構成。それを理論化したのがシド・フィールドで、三幕構成は物語を構成していく上で重要になる「序盤・中盤・終盤」という、普遍的な形についての話だった。
対してカンニング編では、ブレイク・スナイダーという脚本家(最も成功した“競売向け脚本家”といわれ、大手映画会社に売った2本の脚本は、200万ドルの値が付いた。そのうち1本はスティーヴン・スピルバーグが購入している)の唱えた、『ブレイク・スナイダー・ビート・シート(BS2)』と呼ばれる手法について扱う。
ここからはこの、『ブレイク・スナイダー・ビート・シート(BS2)』と三幕構成の合わせ技で、話を進めていく。
BS2はスナイダー考案の、三幕構成をさらに具体化した手法だ。三幕構成はもともと劇脚本の技術で、それが映画に使われていった。それを明確な形で理論化したのが、シド・フィールド。三幕構成そのものはシド・フィールドの発明ではなくて、元々あったものなんだ。そして、手法の種類としては「普遍的な、物語の形そのものについての話」だった。
対してBS2は、スナイダーが作った「面白い物語の傾向から書くべきものを探る、面白い物語を書くため」の、「書く内容」に関する一種のテンプレートだ。
これはあくまで個人の発明であり、「BS2に従うべし」という理屈はどこにもない。モノとしては、三幕構成をの具体性を上げた代わりに抽象性が下がり、テンプレート色が非常に強くなっている。
「物語の構造とモデル」についての話が三幕構成だったとしたら、BS2は本物のテンプレートだ。指針の明確さと拘束力は、比例して上昇していく。取り扱いを間違えると、あなたの創造性を制限しかねないくらいには強烈だ。人によっては結構、センシティブな内容でもある。
二者の関係は「三幕構成の方が抽象性が高く、BS2の方が具体性が高い」という感じかな。スナイダー本人も、「三幕構成をさらに具体化したもの」と言ってるからね。
BS2は具体性が上がっている分、単純で即物的な指針を示してくれている。こういうものの存在は、「ここからここまでの区間、どんな出来事に分類されるシーンを書くと良いんだろう?」という疑問に、手っ取り早く答えてくれる。
図を見てほしい。ざっくりだけど、これくらい手っ取り早い話だよ。
この雑な分類だけでも、結構な数のシーンが振り分けできるだろう。これくらい即物的で、強力な手法だ。
スナイダーが競売向け、つまり大衆娯楽の分野に強い以上、BS2は「面白いエンタメ」の形式のようなものだ。明確に守るほど、物語にストレートな娯楽性、面白さを与えてくれる。
TVCMが流れるような映画は大体これだし、映画に限らなくても、物語は大体こういう流れになっている。そういう意味で、あなたの物語を「書くための指針」としてサポートしつつ、その上、面白さの向上にも一役買ってくれるってわけ。
その威力の程はかなりやばくて、ぶっちゃけ「ハリウッド映画がどれも似たような造りになったのは、BS2のせい」と囁かれるほどだ。けれどなんだかんだ、面白いのもまた事実なんだよね。
だって『ダイ・ハード』も『ダイハード2』も、やってることはブルース・ウィリスがテロリストと戦うだけだ。けど、面白いだろう?
BS2を使うのは構わないが、BS2の奴隷にならないようにだけ、注意してね。三幕構成のパラダイムは明確に決める必要があるが、BS2にそこまでの強制力はない。けれど、『散歩する惑星』のような物語を書くんでない限り、大いに参考になるし、ガンガン使っていいと思うよ。
映画は大衆娯楽で、映画を観る人が多ければ、映画を観慣れた人が増える。映画のスタイルが「慣れ親しんだ面白さ」となるならば、「多くの人に受け入れられやすくなる物語の造り」を、年間1兆2000億円のお金が動くハリウッド映画産業からスタイルを学ぶのは、非常に理にかなっているよね。
テンプレートが是か非か、という話がたまに上がるよね。けれど、もっと大きな括りのテンプレートを知ると、「異世界転生のテンプレが~」とか「ラノベのテンプレが~」なんて話は、気にならなくなるよ。
『タイタニック』と『NARUTO』と『BLEACH』と『エイリアン2』と『マトリックス』と『バイオハザード』と『天使にラヴ・ソングを』と『ホーム・アローン』と『ダイ・ハード』と『28週後』と『暗殺教室』が、同じテンプレートの上で動いてるのに、今更、「そんなのテンプレじゃん」と騒ぐ理由が、どこにあるんだ? 大きな目で見ればみんな一緒だ。どれも同じテンプレートで動いている。その存在、考え方を知らないだけでね。
BS2は三幕構成を使った考え方をより便利に、使いやすく、効果的に、面白くしてくれる。さあそろそろ、この手法について学んでいこう。
BS2の正体
さて、BS2が実際にどんなものが、見てみよう。
ブレイク・スナイダー・ビート・シート(BS2)
- オープニング・イメージ(1%)
- テーマの提示(5%)
- セットアップ(1-10%)
- きっかけ(10%)
- 悩みのとき(10-20%)
- 第一ターニング・ポイント(20%)
- サブプロット(25%)
- お楽しみ(25-50%)
- ミッド・ポイント(50%)
- 迫りくる悪い奴ら(50-70%)
- 全てを失って(70%)
- 心の暗闇(75-80%)
- 第二ターニングポイント(80%)
- フィナーレ(80-100%)
- ファイナル・イメージ(100%)
この15項目に該当するシーンを埋めることで、物語に必要な要素を満たす。そういうテンプレートが、BS2の正体だ。
1項目は1~2行で十分で、これが埋められないようならアイデアがまだ明確でない証拠だと、スナイダーは言っている。
()内は、110ページ(上映時間110分)の脚本の何ページ目かを、パーセンテージに直したものだ。50%の地点でミッド・ポイントに到達する、とか、そういう具合だね。
対応した内容を物語に当てはめていくと、自然と面白い物語になるという優れものだ(ただし、「旨すぎる調味料」であることには気を付けて! あくまで目安であって、盲従の必要はないんだ)。あなたの作品の最初の読者はあなたで、あなたが面白いと感じていられることが、作品の完成にも繋がる。
BS2に合わせた内容を書いていけば自然と、「これこれ、こういう物語が書きたかったんだよ!」となっていくことも多いよ。自分が思い浮かべた物語の形は、今まで触れてきた物語の形によって作られている。あなたが今まで触れてきた物語の造りをなぞることは、あなたが作ろうとしている物語の造りを知ることに繋がるんだ。
それに、配置場所がわからないシーンがあっても、BS2のどのシーンに該当するかを判断できれば、振り分けも容易だ。振り分けたシーンの雰囲気からサブコンテクストを逆算する、なんてことも可能になるよ。
パラダイムとどう組み合わせていくのかもきちんと扱うから、まずはBS2の各項目について、その内訳を確認していこう。
1.オープニング・イメージ(1%)
BS2においてここで特別、語るようなことはない。一般的な「冒頭で大切とされていること」を、きちんと守れば、それでOKだ。
物語の空気、ジャンル、規模、そして何より、「この物語は面白そうだ!」という興味付け。そういったものを、「視覚的に」表す。視覚的にとは、映像でイメージできるシーンで、ということだ。
ちなみに、「謎ポエムや謎の夢で始めるな」という「創作べからず」があるが、個人的に、これは守った方がいいと思っている。
映像になっていないオープニングというのは、映画で言うなら、真っ暗な画面でナレーションを入れるようなものだ。映画の場合、ナレーションと並行して映像が入るが、小説の場合、そうはいかない。
表現活動としての是非はともかくとして、アニメ的、漫画的、映像表現的な物語に慣れた小説の読者を引き付けるには、賢い手段とはならないだろう(小説だって、読者の頭に映像を想起させて物語を進行させるものだ)。オープニングは、わかりやすく、インパクトのあるものを、意識してほしい。
はっきり言うが、オープニングは美味しいのだ。
誰もが触れる部分であり、オープニングを見ずに続きを読む(観る)人はいない。
『マトリックス』を思い出してほしい。トリニティやエージェントがどうしてあんな超人的な動きをできるのかはわからないが、ひたすら興味を惹かれる。緊迫感があり、動きがあり、謎がある。謎があったところで、起こっている現象が理解できるというのも、ポイントが高い。読者に知らせていない情報があることと、何が起こっているのかわからないのは別のものだ。壁を走り、大ジャンプをしているのは、画面をみればわかる。
オープニングでつまらなさそうなら、続きを読むかどうかは怪しい。
あなたからすれば噴飯ものだろうが、読者は忙しいのだ。面白いと思えなかった物語を、何万字も読むほど、元気いっぱいではない。彼らには他にも読みたい物語がたくさんあり、推しのYouTuberの配信を見ながら、ソーシャルゲームの周回もしないといけないのだ。物事には優先順位というものがある。オープニングの不出来は、この優先順位を大きく下げてしまう。
オープニングが大切というのは、小説に限った話ではない。映画だともっと顕著だ。面白い映画は、オープニングから面白い。
これについて、ぼくは一家言がある。何故なら、ぼくがよく見る映画はレンタル店のホラーコーナーにあるからだ。特に、ゾンビ映画とサメ映画。製作費があんまりなく、脚本も結構いい加減なことが多いジャンルだね。
暇になったら、あなたもやってみるといい。レンタル店のホラーコーナーにあるゾンビ映画を、面白そうな順に観ていくのだ。
10本を超えたあたりで、最後まで観るのが苦痛な作品が出始める。オープニングだけ観たら、あとはYouTubeを開きたくなるよ。オープニングが駄目そうだと、「もうあとはYouTubeでも観ながら、面白そうなシーンだけ見てればいいや」となる。勘弁してほしいことに、その「面白そうなシーン」がちゃんとあった映画は多くない。
正直、オープニングがつまらない作品は、最後まで観るのが苦痛になるよ。オープニングがつまらないと、内容までつまらない。その傾向は間違いなくある。
オープニングはある意味、何の制限もない部分だ。唐突に、いきなりその状況が始まっていても許される。主役そっちのけでピエロの覆面をした銀行強盗が描かれても、哀れな犠牲者候補がサメに襲われても、浮気調査の結果を報告していても、製薬会社の説明をしていてもいい。何をしても自由だ。
何をやってもいい場所で面白いものを見せてくれないのに、この先、一体何を期待しろって言うんだ? そして、そんなに自由で、誰の目にも留まる場所なのに、エキサイディングでもなくインパクトもないシーンを書くのは、勿体ないと思わないかい?
(※序盤のスロースタートは、有名な作家ほど許容されやすい。頭にくる話だが、事実である。何故なら、有名なだけの実績があるからだ。
「最初はゆっくりでいまいちかもしれないけれど、これから面白くなる保証を、作者の名前や実績がしてくれている」から、読んでいられる。昔『パンドラ』という雑誌の新人賞の選評コーナーで編集者の人が言っていたから、個人の主観で物を言っているんじゃないよ。
実際、ぼくはスティーヴン・キングの『シャイニング』を読んだが、正直、件のホテルに到着するまでが長すぎて(100ページ読んでも、まだホテルに着かないんだぞ! )投げ出しそうになったし、ホラーとしての閉鎖空間が完成するまでに、もう100ページかかった。その時のぼくの心境はこうだ。「怪奇現象に出くわすまで、あとどれだけ待たされればいいんだ! ?」でも読み続けた。それは、スティーヴン・キングが書いたからだ。面白くなるという保証が、この作者にはある。まあ結局、『シャイニング』はあまり好きにはなれなかったけれど、それはそれだ。キングの名前があったから、ぼくは読み続けた。
どこの誰とも知れない人が、「200ページ目からこの一家は孤立して、怪奇現象に見舞われ始めるんだ、だから読んでくれ!」と言ってきても、それを信じて読み進められる気がしない。ホラー巨匠つながりで、ディーン・R・クーンツの『ファントム』もそんな感じだった。『戦慄のシャドウファイア』は、割と良かったけれどね。
読者はとにかく、手っ取り早く面白さの保証が欲しいのだ。知らない作者であっても、オープニングの面白さがもう一度見られるなら、少々退屈でも読み進めてしまえる)
とにかく、オープニングは大切なんだ。オープニングでやることは、引き付けること! そして「この物語はこういう物語ですよ!」と、雰囲気を伝えることだ。
物語というのはマッチポンプなんだ。期待させてから、期待に応えてあげる。そのオープニングで、何を期待しそう?
『マトリックス』を見ればわかる。銃を撃ったり、殴ったり蹴ったり、サングラスだったり、謎めいていたりする。特殊効果を使った超人的な動きもある。何が起こっているかはわからない。けれど、何を期待して観ればいいかは、すっごく伝わってこない? ああいうシーンをこれから先もやるって思うでしょ? そして、ああいうシーンがあの先出てくる。面白い! 少なくとも、トーマス・アンダーソン君のサラリーマン生活を30分流すことは期待しないはずだし、見せられたとしても、面白くは感じないだろう。
『ドーン・オブ・ザ・デッド』も良いね。ゾンビ物ではあるんだけど、オープニングでゾンビは出てこないんだ。けど、いきなりレントゲン写真から始まる。主人公は看護師で、会話を通して、不審者に噛みつかれて運ばれてきた患者がいることを教えてくれる。
これはゾンビ映画だ。噛みつかれた患者が体調不良で病院に運ばれてきたら、もう起こることなんて一つしかない。ゾンビ・パンデミックだ! あとは、「さあて、いつ地獄絵図が始まるのかな」と、ワクワクしながら観ていることできる。ラジオでは、ところどころ不審な暴動の話が出ているが、画面の中の人物は気にも留めない。「志村後ろ!」と言いたいのを我慢して、ぼくらは観ている。
主人公は翌朝、近所の女の子が血まみれになっているのを見つける。当然女の子は、機敏な動きで襲い掛かってきた。ゾンビ・ウイルスに感染しているのだ。ぼくは我慢できなくなって言う。「ほらね、やっぱり! そうこなくっちゃ! わかってるね! 仕事が早い!」。
ここがインサイティング・インシデントになるわけだけれど、それまでだって、ワクワクさせてくれている。状況設定をきちんとしていくのは大切だ。けれどそれは、退屈であっていい理由にはならない。その一歩目がオープニングだ。
オープニングは、物語の始まりを書く。けれど単に書くんじゃなく、期待を持たせ、雰囲気を伝え、引き込むことがすごく大切になる。
「何を期待して読み進めればいいの?」
「どんなシーンを期待して読めばいいの?」
このメッセージへの回答をシーンに変換して見せてくれると、この後がとても読みやすくなるし、楽しみになるんだ。
2.テーマの提示(5%)
このセクションでは多くの場合、問題提起だったり、この作品を通して人物が得るべき教訓などについて語っている。「こんな人生ってどう思う?」とか、「お金で買えない幸せがある」とかね。ここまであからさまでなく、何気ない一言であったりすることもある。
それは台詞に限らない、視覚的な情報でもあったりする。例えば『マトリックス』は間接的に、「目覚めるんだ、ネオ」という形でそれを表している。その後「起きているのか眠っているのか、わからなくなることがないか?」というネオの問いかけは、これの台詞バージョンだ。
ちなみに、スナイダーの言うテーマと、フィールドの言うテーマでは、内容が微妙に異なる。スナイダーのいうテーマは、一般的に使われる『テーマ』に近くて、フィールドの言う『テーマ』は、フィールド自身がきちんと定義している。
フィールドの定義については後述するから、まずは、スナイダーの言うテーマが割と一般で言われる、「物語を通して得るべき教訓」に近いものだということは、覚えておいてほしい。教訓や、なぞかけめいたものを提示する、そういう部分だね。
『アナと雪の女王』では、幼い日のアナが、トロールのところへ連れていかれたときのシーンが該当する。エルサの力が素晴らしい可能性を秘めていることと、しかしそれをコントロールする必要があること。そのためには恐怖を克服することが必要になると、トロールに言われるのだ。また、アナの頭に魔法が当たったことについて「心臓でなくてよかった。“心”は中々変えられない」と言ってるが、これは後半、凍った心を溶かせるのは真実の愛だけだということにも繋がる。
これらが、物語を通して主人公が学ぶべきものであり、スナイダーの言うテーマだ(これをさらに曖昧な方向に寄せていくと、一般に言われがちな「真実の愛の物語」とかになっていく。間違ってはないが、書き手が道具として使うには、もう二押し欲しい)。
BS2においてはこのセクションに、物語を通して何を達成するべきか、何を得るべきなのかを明示、もしくは暗示するシーンが入る。
3.セットアップ(1-10%)
脚本の最初の10ページが読み手が関心を失うかどうかの境目だと、スナイダーは述べている。オープニングからここまでの範囲、セットアップのセクションでは、主人公の目的やスナイダーの言うテーマ、物語の状況について見せていくことになる。
また、メインストーリーの主要人物もここで紹介される。多くの映画において最初の10分で、主要な登場人物が画面に登場する。もしくは、その存在が示唆される。
たったの10分で!? と思うかもしれないが、小説に換算した場合、全体の尺の10%だ。それだけあれば、主要な人物と、「あとからこういう人物が出てきますよ」という前振りくらいはやってしまえる。
というか、あまり遅くから出てくる人物は、いきなり出てきた感が拭えなくなってしまうから、その存在だけでも匂わせておくのが吉だ。いきなり出てくるのと、名前だけ事前に出ているのでは、印象が全然違う。
「ぽっと出」に見えてしまう人物の登場は、あなたを「なんか違うんだよなぁ、こんないきなり新キャラでるって、なんか違う……」という気持ちにしてしまう。そりゃそうだ、世に流通している物語は、そういう風になっていない。違和感を覚えるのも無理はない。
極端な例だが、推理モノを書いていて、いきなり縁もゆかりもない外部犯が犯人になってしまったら、それは誰の目にも明らかな「ナンカチガウ」だろう。書いていても、読んでいてもそうだ。ミッドポイントを過ぎてから新たな不審人物が目撃されたなら、それはこれまで登場した誰かの変装だ。メタ視点は野暮だが、そう思っても仕方がない。
『アナと雪の女王』でクリストフが本格参入するのは第二幕からだが、幼少の頃の彼は随所に見られる。それに、トロールの治療を受けるアナの姿を目撃している。
『マトリックス』のモーフィアスも、顔を見るのは当分先だが、名前も声も出てきている。
物語の中ボスにあたる、サイファーもそうだ。彼は裏切り者として、物語で重要な位置を占める。スミスの次点の悪役、中ボスに当たる人物だ。主要人物として、彼の存在を出しておかないといけない。でも、モーフィアスや他のクルーたちと対面するまで、物語のどこにサイファーが出ている?
実は、オープニングでトリニティが盗聴された電話の相手がサイファーなのだ。エイポックやスイッチ、マウスではなく、サイファーが相手だった。それはサイファーが裏切者として、他のクルーよりも重要な立ち位置だったという理由もあるのだ。サイファーの存在をきちんと匂わせておくことが、構成の上では必要だった。ぽっと出の裏切者に、物語を左右されてはたまらないもんね。
『タイタニック』でも、年老いたローズは早い段階で出てきているし、何なら、あの意地悪な婚約者の名前も、宝石の所有者として記録されているということで、名前が出ている。ジャックも、「あの絵を描いたのは誰だ?」という面から、その存在を匂わせている。
存在を匂わせるというのは、関連を持たせるということなのだ。セットアップで存在が匂わされた人物が後から出てきても、脈絡のない登場にはならない。存在が匂わされた以上、その人物の登場は、物語に関係している。無関係な登場ではないから、ぽっと出にはならない。むしろ人によっては「伏線」という言葉を使って、喜んでくれるだろう。
ほかにもセットアップでは、登場人物の特徴、後の問題の原因となる行動、主人公が最後に勝つためにはどのような変化をするべきかが示される。セットアップは1-10%の範囲ということで、『テーマの提示』を含む、ということだね。
主人公に足りないものは何か? 自由? 奥さんを信じること? 本当の自分に目覚めること? 真実の愛を知ること? 世の中金じゃないって知ること? 幸せの青い鳥が、近くにいると知ること? こんな『テーマの提示』に加えて、主人公の状態や人物、性格、人間関係など、事前に示しておきたい情報をどんどん詰め込んでいく。
他にも、主人公の良くない状態とかもね。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、学生時代のいじめっ子に未だにいいように使われている父親の状況とか、『ダイ・ハード』で奥さんと不仲だったりとか。
『宇宙戦争』(2005年版)とかは、お決まりのパターンだね。映画を少し見慣れた人なら、薄々感づいている人もいるかもしれない(この映画そのものは賛否あるから、未履修なら、無理に観なくてもいいよ)。
離婚した妻から一時的に預かった子供たちと、良い関係が作れないでいるトム・クルーズ。そんな中、街に突如、異星人の侵略兵器・トライポッドが出現し、人々の命を奪っていく。トム・クルーズと子供たちは生き残ることができるのか、果たして人類の命運は……、という話だ。
大体想像がつくだろうが、トム・クルーズは結果的に、子供たちとの絆を取り戻す。侵略者から逃れる過程を経て、信頼関係を修復できたのだ。
ここでポイントになるのは、子供たちとの不仲の解決と異星人の侵略に、直接の関係がないということだ。あくまで「侵略者から逃げのびた過程と結果」から、親子仲が修復されている。
トム・クルーズは子供たちと生き延びるために頑張るのであって、親子関係を修復するために頑張っているわけではない。メインは侵略者から逃げることで、その結果、セットアップで示された問題が解決したのだ。
言語化していなくても、序盤に示される主人公の問題と解決の関連性を感じている人は、結構いると思う。
こういう形は、割とよくあるパターンだ。離婚した学者夫婦が、災害の危機から専門家チームを作ることになって再会し、結果仲直りするとか。ありがちだけどオイシイよね。『NARUTO』の第一話でも、結果的にイルカ先生から額当てを貰っている。紆余曲折、「なんやかんや」の後にね。
解決する場所については、エンディング付近であったり、プロットポイントⅡを過ぎてからすぐだったり、様々だ。それは物語ごとに、個別に設定される。
けれど、冒頭に示された問題は、確実に何らかの形で解決される。「答えが出ない」という形であっても、「答えが出ない」という回答は示される。これもある意味「どうなったか」を見せる『解決』だ。
「主人公は今、こういう問題がある、そしてそれは、第二幕や第三幕でなんやかんやあって解決する」。『セットアップ』は、そのための事前情報を扱うセクションでもあるわけ。
……と、色々話したけれど、ぶっちゃけて言うと、この後すぐに事態が急変するから、ここでやっておくしか場所がないんだ。
『宇宙戦争』で、トライポッドが殺人光線を放ってくるのに、今になって子供との不仲を見せられても、反応に困ってしまう。「忙しくなるのがわかってるんだから、先に見せておいてよ!」って。トム・クルーズや子供たちも、仲の良し悪しにはとりあえず目をつむって、まず逃げるべきだろう。
いつものパターンだが、他は他のセクションで、やることが沢山あって忙しい。だから必然的に、ここまでに準備を済ませておくしかないんだ。
4.きっかけ(10%)
『きっかけ』のセクションでは、何かが起こる。ここまでは、「どんな世界の、どんな人物が、当面どんな話についてのシーンを見せていたか」についてだった。けれどこのセクションで、それは一気に崩れ去る。何かしらの事件、出来事によって、これまでの状態が崩れるのだ。
『アナと雪の女王』では、「戴冠式のために門を開く」がこのセクションに当たる。OPからここに至るまで、アナとエルサの間に何があったのか、二人の立場などについて、語られている。エルサは人を避け、アナすら拒絶している。良い状態とは言えないけれど、それはそれで安定していたのだ。だけど、この状態が崩れるときが来た。戴冠式をするために城門を開き、人々の前に出ないといけなくなったのだ。
『きっかけ』をきっかけに、事態が変わった。ここから、安全な世界は、安定していた世界が崩れ始める。
安全な世界が崩れると言えば、『マトリックス』でもそうだ。勤務先に「当局」の黒服がやってきて連行された。これでも十分やばいが、なぜか口がなくなって、気持ち悪い金属ゲジゲジみたいな寄生体を入れられたのだ。ネオからすれば夢かもしれないが、メタ的な視点ではこの流れはどう考えても現実で、ネオの体には寄生体が入っている。ネオが夢だと思っているだけで、安全な世界は遠い昔の話である。
『きっかけ』は、三幕構成おけるインサイティング・インシデントにあたる場合が多い。
それは必ずしも10%地点にあるわけではなくて、オープニングの段階で『きっかけ』の一部を扱って動きをつくり、そのあとで実際に行動を起こしたりといった形で、分割してこの役目を果たすこともある。『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』とか、『マトリックス』がこのタイプだね。
何も起こっていない状態に一石を投じて、物語を本筋にシフトさせる契機となる出来事までの間をつなぐ。当面は、この『きっかけ』についての話題が扱われるわけだ。
5.悩みのとき(10-20%)
きっかけで動き始めた物語は、後に紹介する『第一ターニングポイント』へ向かっていく。けれど、すんなりとはいかない。
物語が本筋に入る前に、よく考えるための準備期間が入るのだ。
「本当にそんなことできるのか? 大丈夫なのか?」と自問自答したりする。もしくは、「そんなことできるわけがない」と仲間に言われて、それを説得する形で、主人公の意思の強さを見せたりする。
スナイダーは『悩みのとき』で大切なのは、「何かしらの疑問を抱く」ことだと言っている。いけるのか? 本当に大丈夫なのか? でも、このままでいる方が、もっとマズくないか? こんな風に様々な要素が、意思確認を迫ってくる。第二幕へ入ったらもう引き返せないぞ、と。
例えば『マトリックス』で、モーフィアスと邂逅したネオは、選択を迫られる。思わせぶりなことを言っているが、モーフィアスが言っているのは、「第二幕に進めそうか、進む意思はあるか、ネオ」こういうことだ。
『パイレーツ・オブ・カリビアン呪われた海賊たち』でもそうだ。海賊の襲撃から一夜明けて、ウィルは提督の所へ乗り込む。「エリザべスがさらわれた!」。
ノリントン提督はウィルを窘める。「きみは鍛冶職人だ」。エリザベスを助けたくて、居ても立っても居られないのに、海軍の奴らときたら、悠長なことをやっている。
こういった形で、「本人としてやることははっきりとしているのに、周りがそれを押しとどめる」という現象も、ここに当てはまる。そしてウィルは、ジャックのところへ行くのだ。本当に、海賊なんて人種と手を組むのか? 構わない。そうまでしても、エリザベスを救いたいのだ。
BS2の視点から見ると、これは『悩みの時』の問いかけであり念押しだ。「ウィル、お前は本当に、海賊と手を組んで、愛する女を救いに行くんだな?」。モチのロンさ!
ここを明確にしておくと、読者、しいてはあなたの中の批判的なあなた自身から、「おいおい、本気でそんな冒険に出るのかよ」と突っ込まれることがなくなる。
『悩みのとき』を通すことで、明確な意思を持って第二幕の世界に取り組む、意思が見せられる。そうするとあなた自身も、主人公の意思をしっかり確認することができる。第二幕のキャラクターの動きの方向性がはっきりしてくるんだ。
『アナと雪の女王』では、アナが馬に乗って城を出るまでが、このセクションに分類されている。エルサを追うの? 本当に? だって姉さんだもの、大丈夫!
雪山に一人、心細い旅になる。けれど、ここで意思をはっきりさせておけば、「寒いし、エルサ追っかけるの辛いから、やっぱ帰る……」なんてことにはならない。だって、『悩みの時』を経て、エルサを追うと決めたのだ。ここで帰るようなら、そもそも第二幕には足を踏み入れていない。
『マトリックス』でネオが、有無を言わさず薬を飲まされたらどうなるだろう? 現実世界に来てから、「待ってくれ、真実なんて知りたくない!」と言い始めたら、書いている方も、読んでいる方だって、困っちゃうだろ? 『悩みのとき』という形で、意思確認をきっちりしておくのは大事なんだ。
ちなみに、行動的でないダウナー系の主人公の場合、ここは嫌だ嫌だと抵抗するセクションになる。抵抗しても結局、最後は事件に巻き込まれる形になるんだけどね。
6.第一ターニング・ポイント(20%)
『悩みのとき』を経て、物語は第二幕に突入する。また、スナイダーはフィールドよりも断定的に、第一ターニング・ポイントの場所を指定している。
第一ターニングポイントは、25ページ目に起こる。これについては、いろんな意見がある。28ページじゃダメなの? とか30ページじゃまずいわけ? とか……。そういうの、やめてくれ。120ページの脚本では、第一ターニングポイントはとにかく25ページ目なのだ。はい、議論終了。
(snyder 2005: p. 122)
こんな風に言っている。そして本当にこれ以上、何の根拠も示してくれない。この語気の強さがBS2がテンプレートたる所以だろうね。
ここで言う25ページ目というのは、物語の20%目に当たる。といっても、あなたがこの数字を厳密に守る必要はない。あなたが書くのは小説で、映画脚本ではないからだ。映画はシビアに上映時間が制限を受ける上、映像と台詞ですべてを語らないといけない。そのあたり、小説の方がずっと自由が効く。
けれど、目安として守ることは大切だし、せっかく目安があるのだから、有意義に使わせてもらおう。何度も言うが、BS2はエンタメの型でもあるのだ。
第一ターニングポイントは、第二幕への入り口だ。スナイダーはこの、2つの幕の境目について、「2つの世界はあまりにも違うため、自ら入ろうとする明確な意思が必要になる」という注意点を述べている。
つまり、「明確な意思を持って、主人公は幕を跨ぐ」、ということだ。
ぼくもそう思う。主人公は主体的に、第二幕に入らないといない。『悩みのとき』を経てね。でないとさっきも言ったように、『アナと雪の女王』で、アナが川へ落ちたとき、「寒いし、そんな頑張らなくても、帰ればいいのに」と、書いているあなた自身が、思うことになってしまう。
だって明確な意思もないのに、雪山を上る元気なんてないだろ? どうしてこんなに寒い中、アナは雪山に上るわけ? と、読者に見せる前に、書いている最中のあなたが思ってしまう。
こうなると、あなたは選択を迫られる。キャラクターを操り人形にするか、この乖離に苦しみながら書き続けるかだ。
あなたがそうでなくても、読者に思われてしまう。「アナが苦労して雪山を上る理由がわからない」ってね。そこでもし「アナはエルサを助ける動機がちゃんとあって……」と説明を始めたら最後、カウンターパンチが飛んでくる。「だったらそれをちゃんと、シーンで見せてよ!」ってね。だから、明確な意思をもって幕を跨ぐ姿を、ここで見せるんだ。
これは別に。「面倒なことをやりたくない」とか、「毎日平和に暮らしたい」という主人公を、書くなと言っているわけじゃない。
彼らだって、「平和な毎日を守るために」とか「これ以上面倒なことにならないために」とか、「面倒だけれど見過ごせないから」行動しているのだ。そこには、拒絶であろうと、明確な意思がある。サメに食べられないよう、生き残るために行動する主人公と、この点からすれば、大差はない。
『ダイ・ハード』だってそうだ。何が楽しくて、非番の日に裸の大将みたいな恰好で、完全武装したテロリストと戦わなきゃならないんだ? それは、苦労して呼んだ警察もFBIも、結局アテにならないと気づいたからだ。外部の助けは期待できないのだ。こんちくしょう、こうなったら、一人で何とかするしかないじゃないか! 嫌々だけど、明確な意思を持っているでしょ?
けど、こうなるのは最終段階だ。まず最初、彼はできる限り隠密し、警察の力を借りようと奔走する。その上で、火災報知機を使って外部に助けを求めた。これを契機にテロリストに自分の存在がバレることとなり、不運な警官VSテロリスト、という図式となってしまう。
ただし、彼は自分の意思で、この事態を何とかするために立ち上がった。これはその結果だ。嫌々でも、最後は自分の意思で、テロリストと戦うことを決めているのである。
降りかかってきた危機に対処するにせよ、「危機に対処する」という明確な意思が必要になる。そうでないと、主人公が物語から乖離していってしまう。主人公の首にハーネスをつけて引っ張るような真似に耐えられず、途中で書けなくなってしまうのだ。
物語の方向性を決めていても、そこに人物の行動が伴わないなら、書くのが苦痛になってしまう。創作ハウツーでよく言われる、「主人公の動機をきちんと決めましょう」とは、こういうことだ。
BASIC、前章と、物語が目指す地点を見失ったとき、長編が書けなくなると何度も言った。
同様に、主人公の意思が決まっていても、その意思でどこを目指すか決まっていないと、物語を前に進められない。
次の地点だけ決まっていても、主人公がそこに至る動機がなければ、物語は前に進めなくなってしまうのだ。つまり、書けなくなる。
だから明確な意思をもって幕を跨ぐのが重要になるし、それをシーンで見せるのが大切だ。
7.サブプロット(25%)
『サブプロット』とは、『Bストーリー』とも呼ばれる。サブ+プロットというだけの組み合わせだが、これはBS2の用語として覚えてほしい。
サブキャラを書くのに楽しくなってしまって、主人公がないがしろに……。というのは、ありがちな話だ。勿論、ほんとうに主人公も物語もそっちのけになってしまうのは避けるべきだけれど、ある程度それが許される場所が存在する。
それが『サブプロット』だ。第二幕の前半、ピンチⅠ以前の空間が、それにあたる。
第一ターニングポイントを経て、物語は本筋に入った。けれどそれからすぐに、本筋の物語が始まるわけではない。メインの話(『Aストーリー』)から、少しだけ横道に逸れる、逸れるのを許されるクッション期間が、『サブプロット』だ。
ここではよく、主人公が新しい人物と合流し、その人物についてのシーンに尺が割かれる。
「メインプロットが軌道に乗ってきたところで、ターニング・ポイントになり、突然第二幕へと突入して観客はそれまでと正反対の世界に放り込まれる。観客としては『わかったから、ちょっと別の話もしてくれよ! 』という気分になる」と言っている。「サブプロットはちょっとした場面転換であり、新たな視点からとらえたプロットなのである。そして観客にとっては、ちょっとした息抜きになる」
(snyder 2005: p. 123)
スナイダーもこう言っていて、サブプロットでは少しの脱線が許されるんだ。
『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』を思い出してほしい。
行方不明の女の子の靴を見つけ、転校生のベンやベバリーと合流した。それからこの二人との関係に、かなりの尺が割かれていたよね。あれはサブプロットだ。『ダイ・ハード』で警官のアルが出てきたのも、このセクションだね。
ちなみに、恋愛要素やサブキャラとの人間関係に尺を使うのもこのセクションだよ。恋愛や、その人物とのつながりがBストーリーであり、プロットポイントⅡで、メインの物語(Aストーリー)と合流するとされている。
『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』でベバリーと仲良くなったのと、プロットポイントⅡでベバリーを助けに行くことになったことは関連しているよね。ペニーワイズという怪異に関するメインの物語と、ルーザーズクラブとベバリーの友情というサブの物語が、プロットポイントⅡで合流したんだ。
『アナと雪の女王』も、そうだよね。クリストフの存在を見たオラフが、事態の解決には真実の愛が必要なことを教えてくれる。彼らとの関係に尺を割いていたのはどこだっけ? そう、このセクションなんだ。
『マトリックス』では若干薄いが、トリニティがネオに食事を運ぶシーンなどが、恋愛要素と言えるだろう。第二幕が終わる間際のトリニティとの会話が、ネオを第三幕へ動かすヒントとなる。
『エイリアン2』は生存者の女の子との出会いが、結果的にエイリアン・クイーンとの対決を引き起こす。配置されている場所が、かなりミッドポイント寄りで、少し変則的ではあるけれどね。
サブプロットはプロットポイントⅡでメインの物語と合流し、一つになる。そして、第三幕へと向かっていく。ヒロインや友人からヒントを得て、第三幕にシフトする物語ってあるだろう? サブプロットの場所を覚えておくと、彼らを出しておくタイミングに困らない。
ちなみにここでは、今までに出てきていない、全く新しい登場人物が出てくることもある。『ダイ・ハード』がこのタイプだね。
「ぽっと出に見えてしまうのでは?」とか。「ルール違反にはならないの?」と思うかもしれないけど、問題ないよ。ここで出てくる分には、大丈夫なんだ。
物語の本題となる世界に冒険に出て、そこで新しい仲間に出会う。新しい世界に入らなければ出会えなかった、新しい仲間に出会う。それだけの話なんだ。ごく普通のことで、おかしいことなんてない。
これがヒロインとかだと、流石にまずいけどね。例えば『ルパン三世』の映画シリーズ。ゲストヒロインポジションのキャラが、第二幕まで出てこないなんてことはないでしょ? それにヒロインポジションは、毎回物語の核心に関わっているしさ。そうなると、「サブ」なんて扱いはできない。『カリオストロの城』のクラリスとか、思いっきりメインキャラだもの。
プロットポイントⅠが見えづらい人は、サブプロットで出てくるキャラクターの説明を、状況設定の一部だと思って割り振ってしまっていないか、思い直してみてほしい。
「確かにそのキャラは登場人物の一人だが、サブプロットとして登場した人物ではないか?」と、見直すことで、プロットポイントⅠの見極めがしやすくなる。反対に、「設定や人物の説明が全て終わったところが、プロットポイントⅠだぞ」という基準で判断しようとすると、サブプロットで出てくるキャラが、幕の境目を破壊してしまう。
試しに、『エイリアン2』や『マトリックス』を、「設定や人物の説明が全て終わったところが、プロットポイントⅠだぞ」という視点で観てみるといい。どこがプロットポイントⅠなのか、マジでわからなくなるよ。
モーフィアスがネオに現実世界の現状を説明した後の地点から、プロットポイントⅠになりそうな部分を探して、そこから、パラダイムを作ろうとしてみる。これだと、基本のパラダイムを作ることすら怪しいよ。
プロットポイントの定義である、「物語の方向を転換する」って部分をきちんと注視すればいいんだけど、状況設定は第一幕、説明しているシーンはすべて第一幕、という見方だけで割り振ろうとすると、ここで躓く可能性がある。
それは、状況設定が終わった後すぐに、プロットポイントⅠの後からもう一度、別の状況設定をする必要があるからなんだ。
「中盤→別の中盤」という形で繋がることはないが、「序盤→別の序盤」という形では、繋がってしまう。だからこそ第二幕前半の内容が、状況設定である第一幕に飲み込まれてしまいやすい。
けどそれをやってしまうと、プロットポイントⅠの場所がめちゃくちゃになってしまうんだ。
「『マトリックス』で、モーフィアスから現実の説明を受けているから、ここはまだ第一幕だな。でもそうなると、この先のどこがプロットポイントⅠになるんだろう?」、とか、「『ダイ・ハード』で、警官のアルが出てきたからまだ状況設定は終わっていないんだ」と、こんな風に嵌ってしまうと、パラダイムがぐちゃぐちゃになってしまう。
プロットポイントⅠの判断が難しい人は、『サブプロット』や『お楽しみ』での状況設定が混ざってしまっていないか、注意して確認してみてほしい。
主人公が選択した後、意思を見せた後に、新しい世界に入って何か説明を始めたり、新しい人物の描写が始まったら、そこはもう第二幕に入っていると思っていい。
もし自身の物語を書く時、サブキャラや恋愛要素に尺を使いたいと思ったら、『サブプロット』は恰好の(というか、ほぼ唯一の)場所になる。
サブコンテクストだけでその場所が判別できなかったとき、こういう視点から、シーンを割り振る。サブキャラや横道、日常シーンを入れたい、けれどその場所がわからないという人には、かなりわかりやすい指針になるよ。
8.お楽しみ(25-50%)
ここは物語の「お約束」とされる部分で、お客さんの期待に応える、物語の一番おいしい部分に当たる。大事なことなので二回言おう。ここが、物語の一番おいしい部分に当たる。範囲は25-50%の間で、第二幕前半がここに属する。
テロリストに一杯食わせたり、仮想世界で超人的な格闘戦を繰り広げたり、本当のパーティーってものを見せて貰ったり、船の上で腕を広げたりする。
スナイダーは、「『お楽しみ』セクションは観客に対するお約束を果たす場と言っていい。ポスターや予告編で使った一番おいしい部分なので、観客はストーリーの進展以上にこの『お楽しみ』に期待しているものだ」(snyder 2005: p. 125)と言っている。
『アナと雪の女王』の『Let It Go』、『君の名は』の『前前前世』、印象的だよね。そして、あのシーンを観に行ったはずだ。いや、ぼくはレンタルで観たんだけどさ。
それでも観る前から、あのシーンと曲は知ってた。宣伝する方も、それをわかっているんだよね。構成上、ここが売りどころなんだから。この物語の売りはココですよ、ここを見に来てくださいね、というのがこのセクション、『お楽しみ』だ。
このセクションでは、少々軽いことをやっても許される。スパイダーマンがお茶面なことをやってもいいし、『ダークナイト』のブルース・ウェインですら、悪者を捉えた後、バットマンの格好をしたままビルから脱出したいと、わがままを言っている。
『タイタニック』でも、ローズがひやひやしている中、ジャックは口八丁で、富裕層での食事を乗り切ってしまう。「本当のパーティを見せてあげるよ」と、連れられて、お嬢様が貧困層のパーティに出たらどんなシーン生まれるかを見せている。
『マトリックス』でも、直前でした「救世主がどうのこうの」なんて堅苦しい話そっちのけで、ドラゴンボールみたいなバトルをやっている。
『君の名は』だって、なんで入れ替わったとか、そういう話って何にも関係なしに、入れ替わり生活を、ブツブツ言いながら、エンジョイしてる。CMでもそうだったでしょ? 「前前前世と一緒に、なんか入れ替わる話でしょ?」って。その通り。その通りで、そういう風に宣伝されているんだ。
『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』でも、ペニーワイズは暴れ放題だ。ペニーワイズは確かに脅威ではあるけれど、この物語は、ビルたちの物語だ。クリティカルな被害はまだ出ない。ペニーワイズは思いっきり派手に暴れまわれるし、ビルたちも、致命傷を受けないまま立ち向かってゆける。
『ディープ・ブルー』ではこの段階で何人か巨大サメに食べられてしまうけれど、このセクションは、観客の期待に応えるセクションなんだ。仲間はやられたけど、サメ映画は、サメが人を食べなくっちゃね!
反対に、『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』で、ルーザーズクラブの面々が『クライモリ』シリーズばりに惨殺されるのを期待はしないだろう。そう思われるような第一幕には、なっていないんだ。
色んな物語のCMを思い出してほしい。面白そうなシーンを流しているけど、物語の本筋に強く絡まないエンタメ色の強いシーンが大体、第二幕前半から抜き出されているよ。
『お楽しみ』における、「お約束」という考え方は、非常に重要になる。「読者が何を読みたいのかを意識する」というのは、広く知られている創作ハウツーだよね。
小説を書くというのはサービス業だ、というのも、かなり的を射ていると思うよ。オープニングからここまで読者は何かを期待しながら読んできている。期待させた以上、それに応えないといけない。
読者が何を読みたいのか、読者の期待に応えるのがつまり「お約束」に応えるということであり、『お楽しみ』なんだ。
クモのスーパーパワーを手に入れた少年が活躍しているシーンを観たいから、スパイダーマンが活躍するシーンは第二幕前半に配置されている。バットマンが活躍するシーンも第二幕前半だ。
もし、お嬢様が豪華客船の上で貧困層の自由な青年と出会ったら? 『タイタニック』でこの期待、お約束に応えているのは、第二幕前半だ。
もし、非番の警官が丸腰でテロリストと戦うことになったら? 『ダイ・ハード』でここに応えているのも第二幕前半。
もし、今まで認識していた世界が仮想現実の世界だったら? 『マトリックス』の第二幕前半は新しい世界の状況を説明しながら、この期待に見事に応えている。
モーフィアスが過剰演出でネオを怖がらせたのだって、観客の期待に応えたと思えば、映像的で、演出的で、これ以上ないシーンだ。仮想現実だったのは、人類が機械に支配されていたせいだったのだ。ネオにとって楽しいシーンではないが、見る方からすれば、種明かしとリアクションが観られる、期待たっぷりの面白いシーンだ。
第二幕前半では、敵や障害にどんどん勝ってゆく。
人類の残酷な現実を受け入れるし、モーフィアスにも勝つ。仮想の世界ならではの失敗、ジャンプ・プログラムでのミスもあるし、「マトリックスに入ったと思わせておいて、実はエージェントの脅威を説明するための訓練プログラムだった」なんてドッキリもできる。仮想世界に敵がいるなら、現実世界の敵もいるはずだ。だからスクイッディという、現実の世界でネオたちの脅威となる兵器も出てくる。第二幕前半では、第一幕で読者に期待させた内容に、徹底的に応えているんだ。
ネオが失敗したり、負けたりすることもあるが、それは乗り超えられる範囲であったり、深刻にはならない範囲のものだ。何かあっても「もう駄目だ……」とはならない。『お楽しみ』の間では、まだね。
余談:海を泳ぐ魚の切り身
スナイダーの理論とは関係ない、ぼくの考察を一つのせておく。場所に迷ったが、ここがベターだろう。
昔、「最近の子供は、スーパーで売っている刺身がそのまま海を泳いでいると思っている」なんてニュースがあったと聞いた。「おいおい」って思うけれど、物語という分野では、似たような現象を起こしがちだ。
ぼくらのようなタイプの書き手は、物語の一番おいしい部分だけあれば形になると、勘違いしていることがままあるんだ。
魚と同じように、物語だって、食べやすくておいしい、考えやすくて楽しいところばかりでは成立しない。
おいしい部分なのは確かだし、背中の食べやすい部分の無くなった焼き魚を出されたら、しょんぼりしてしまう。けれど、魚が生物として成立するためには、他の部分だって大事なのだ。食べる方は美味しいばかりでいいが、魚からすれば、頭も尻尾も必要だ。
同じように物語も、楽しくて考えやすい部分だけでは成立しない。おいしい部分に力を注ぐのは当たり前として、他の部分だって、物語を成立させるうえで重要な役割がある。
『お楽しみ』は大切だけれど、そろそろ他のこともやらなくっちゃね。
9.ミッド・ポイント(50%)
『ミッド・ポイント』は、物語を前半と後半に分ける点だ。表記ブレのように見えるけれど、フィールドの言う『ミッドポイント』とスナイダーの言う『ミッド・ポイント』は、使い分ける。
「・」の有無はそれぞれの邦訳に則った故だが、両者の言う「物語の中間地点」のニュアンスが、若干違う。このテキストではフィールドの三幕構成をメイン、BS2をサブとして扱うから、基本的には『ミッドポイント』なんだけれど、どういうものか知っておくのは大切だ。きちんと、スナイダー定義を述べておこう。
スナイダー曰く、BS2における『ミッド・ポイント』は、「仮の勝利」をする、絶好調の地点だという。
『お楽しみ』で、軽いながらも、事態はどんどん良い方向に向かって行った。苦難はあってもまだ何とかなる範囲で、すべてそれらを乗り越えてこれた。そしてここで、絶好調に達するというわけだ(ひたすら陰惨な目に遭い続ける『お楽しみ』の場合、反対に、一番悪い状態、絶不調になる)。
ネオが力を付け準備が整ったから、救世主かどうか白黒つけに行けるのだし、ローズとジャックは、船を出たら一緒になることを誓った。アナはクリストフやオラフといった、サブプロットで得た新しい仲間と一緒に、エルサの作った氷の城へ到着した。
いやぁ、ここまでいいことばかりだった! 大変なこともあったけれど、全部乗り越えてこれた! 鬱展開もなかったしさ! 『葛藤』にも勝利したんじゃないかな、これは!
ミッドポイントで、ほんとうに調子よくなるんだ。ここまでは良いことばかり、悪いことが起こっても、すぐに解決出来たり、クリティカルなダメージを与えるようなものでなかった。
だが、ミッドポイントに到達した後は、そうは言ってられなくなる。ミッドポイントを過ぎてからは、ほんとうにろくなことが起こらない。よく言われる、「ミッドポイントからはいきなり危険度がアップする」のだ。
そして危険度がアップすることに加えて、物語が絶好調に達した後、ミッドポイントによって「本筋に引き戻される」ということを、意識すると良い。こういう役目がミッドポイントにあること事態は前回も話したが、今回は周囲にある要素の、状態が少し違う。前回周りにあったのは第二幕前半やピンチⅠだったが、今回は『サブプロット』や『お楽しみ』が周りにある。
『サブプロット』や『お楽しみ』で、物語の本筋から少し外れたり、軽めのノリで楽しんだりしてきた流れを、ここでマジな流れに戻すんだ。だから危険度がアップして、話がシリアスに戻る。
『マトリックス』で、マトリックスの説明も、訓練も、楽しかった。けれど楽しい部分はおしまいだ。そろそろシリアスな話を初めて、ネオが救世主かどうか、確認しに行かないと。それに、いつかはエージェントと戦わないといけないんだ。楽しいことは済んだし、そのきっかけに向かって、舵を切らないといけない。
『タイタニック』だってそうだ。二人の仲が深まるのは良いことだけれど、船が沈む話だってことを、忘れちゃいけない。二人の仲は十分深まったから、次に進まないと。船が沈む話にするには、どうすればいいか? そう、氷山にぶつかるんだ。
第一幕で設定した物語を書きたかった本筋に入れ、楽しくやってきた。けどここからは、そうはいかない。何故なら、ここで物語は本筋に戻り、切った張ったの真剣勝負に戻るのだ。
『オデッセイ』で、火星ジャガイモが全滅するシーンはこの好例だ。
火星に置き去りにされたマット・デイモンは、宇宙飛行士としての数々の知識、技能、工夫によって畑を作り、食料を自給できるまでになった。地球との通信も回復できるようになって、あとは救助を待つばかりだ。やったね! もう絶好調!
けれどこの物語は、「火星でジャガイモ畑を作れてよかったし、地球との通信もできるようになった、チャンチャン」という話ではない。地球に帰るまでの物語なのだ。
全てが上手くいったと思ったのもつかの間、栽培していた火星ジャガイモが全滅し、食料が増やせなくなってしまう(ここは既に、この先で紹介する『迫りくる悪い奴ら』に分類される地点となっている)。
もう今までのように、楽しい話はしていられない。積み上げてきたものが水の泡になって落ち込むし、現実問題、食べ物がないのだ。マジになって、なんとかするしかない。楽しい時間は終わり、本来解決するべき問題に取り組むときが来た。本来の目的は何だっけ? 火星の生活を楽しむ? 生き残る? 違うだろ、地球に帰るんだ!
危険度は上がった。けれど、その本質は、危険度が上がったことによって、物語が本来の流れに引き戻されたことにある。危険度が上がったからこそ、『お楽しみ』が終わるんだ。
流れが引き戻され、切り替わったということは、第二幕の文脈、サブコンテクストが前後で変化しているということでもある。
単に「危険度を上げる」とだけ認識していては、自分の物語を見たとき、「危険度なんて、第二幕に入ってからずっと上がり続けているんだが、これはいかに」となってしまう。
『バイオハザード』なんて、暴走したコンピューターがレーザーで仲間の命を奪うのだ。パッと見、緊急事態もいいところだけれど、ここはまだミッドポイントではない。文脈を半分に割っていないからね。
危険度がアップして、その結果、文脈が前後に分割される。フィールドの言うミッドポイントとは、ここで始めて合致してくるんだ。
また、『ミッド・ポイント』は、この後に紹介する『すべてを失って』と対になると、スナイダーは言っている。
『すべてを失って』は、見せかけの敗北とも言われる。『ミッド・ポイント』で絶好調になれば、『すべてを失って』で絶不調になる。(相変わらず、その根拠についてスナイダーは提示してくれない。BS2とはそういうものである)。
反対に、『ミッド・ポイント』が絶不調なら、『すべてを失って』で絶好調になる。ただし、この絶好調は、「見せかけの勝利」でしかないので、先に待っているのは、大変な未来である。
多くの物語の場合、「第二幕の後半ほど不調になる→プロットポイントⅡから逆転」という流れになる。なので基本的に、「BS2においては絶好調になるところが『ミッド・ポイント』である」と、こう覚えておけばいい。
補足:『ミッドポイント』VS『ミッド・ポイント』
立てたフラグを回収しておこう。2つの違いについてだ。
フィールドの言う『ミッドポイント』と、スナイダーの言う『ミッド・ポイント』は必ずしも同一にならない場合がある。
スナイダーの言う『ミッド・ポイント』は、「絶好調」ないし「絶不調」を指すが、その絶好調や絶不調が、物語を前後に分割している場合と、そうでない場合があるのだ。
『マトリックス』で、預言者に会うためにマトリックスに侵入したのは、ネオが十分な力をつけたからだった。これは一つの到達点、「絶好調」であり、「物語を本筋に引き戻す」シーンだ。
それに対して、『タイタニック』では、ジャックとローズが船を出たら一緒になることを誓うことは「絶好調」だが、それによって物語が2つに分かれているわけではない。スナイダーの言う「絶好調」は、必ずしも物語を2つに分割しないんだ。
フィールドの言うミッドポイントは、厳密に見ていくと、BS2における『迫りくる悪い奴ら』の入り口であることが多い。つまり、下り坂への入り口だね。氷山にぶつかるとか。
このテキストでのBS2は、あくまでパラダイムを書く上での補助としての利用になるから、基本的にフィールドの三幕構成における『ミッドポイント』を使っていくから、「へぇ~、そういうこともあるんだ」程度に、覚えておいてほしい。
ここは三幕構成とBS2で、似通った用語のわりに食い違いが起こりやすいから、自身の物語について考える時は、「絶好調」と「下り坂への入り口」の両方のシーンを考えておくと良いよ。『ミッドポイント』と『ミッド・ポイント』の両方を、カバーできるから、「絶好調になった後にやることがなくなった!」ということもなくなる。
補足:セット・ピース
さて、少し番外だ。けれど、あなたの物語にとって重要な要素について、話をする。BS2上の要素とはまた違う、ハリウッドにおける、シーンの分類についてだ。
物語を前に進め続けることは、ほんとうに大切だ。物語を前に進めもせず、新しい情報も明かさず、人物の別の一面を描写することもない。そんなシーンは、すべてカットするべきなのだろうか? 使いたいシーンだったのに。
ハリウッドには『セット・ピース』という考え方がある。
定義は、「独立したアクションシーン、またシークエンス」で、早い話、「これといって物語を前に進めるわけではないけれど、あると盛り上がるシーン」のことだ。セット・ピースはカットすることもできるし、別のシーンに差し替えることもできる。
『アナと雪の女王』で、『Let It Go』と一緒に氷の城を作るシーンとかね。頭の固い人からは「あったら盛り上がるけど、なくても別にいいだろ?」と、言われてしまいそうなシーンだ。「あんなに尺要らないだろ?」って。けどさ、盛り上がるんだよね。
ブルース・ウィリスやアーノルド・シュワルツネガーが出るようなカーチェイスシーンは、もっと顕著だ。銃撃戦のシーンだってそうだよ。
『ターミネーター2』で、シュワルツネガーが用水路でトラックとチェイスするシーンなんて、別に用水路でなくてもいいし、バイクでも、トラックである必要もない。ああいうシーンの結果で得られるものは物語を前に進めるけれど、カーチェイスや銃撃戦そのものは、派手にドンパチやっているだけの、ただの「魅せシーン」だ。これが、『セット・ピース』と呼ばれる分類なわけ。
スナイダーは、スタジオの重役に「もっとセット・ピースが欲しいな」と言われた時、『お楽しみ』のセクション、つまり、第二幕前半に配置することが多いと言っている。ぼくもそれに倣っているよ。
一番おいしい部分に、映えるアクションシーンを入れる。当然のことだよね。これは小説の場合、「アクションシーンに限らず、別になくてもいいんだけれど、盛り上がるから入れたい」というシーンが当てはまる。
追加のピースを、おいしいセクションに追加して、もっとおいしくするイメージだ。第二幕前半は少し横道に逸れても許されるから、「盛り上げるだけのシーン」があってもいいんだ。
もし、「日常シーンのための日常シーン」をやるなら、ここしかないだろうね。日常シーンそのものは独自に完結していて物語を前に進めるわけではないけれど、『お楽しみ』に配置される、セットピースだと分類できるわけだ。
勿論、セットピースは第二幕前半以外に配置してはいけないというわけでないから、大丈夫。あくまで傾向として、第二幕前半に配置されやすく、配置しやすいというだけだ。『ターミネーター2』だって、件のチェイスシーンが配置されているのは第一幕だしね。
ただ指針として、頭の隅に置いておくと、「あ、なら第二前半に入れちゃおう」と気づきを得る時があるから便利だ。最悪、迷ったなら第二幕前半に入れてしまおう。案ずるより産むが易し、仮でもいいから割り振ってしまえば、案外、しっくりくることも多い。
大丈夫、読者は流通している物語に慣れている。そして流通している物語は、そういう風になっているのだ。
10.迫りくる悪い奴ら(50-70%)
さて、ミッドポイントを過ぎた。ここからは、ほんとうにろくなことが起こらない。楽しい話はもう終わりだ。ミッドポイントでマジな話に戻った物語は、どんどん悪い方向へ進み始める。悪い奴らの逆襲が始まるんだ。
今まで、主人公は勝ち続けてきた。少々の苦難も、なんとかなってきたわけだ。たとえ宇宙に一人置き去りにされたとしても、サブマシンガンを持ったテロリストに追い回されても、実は今までの世界はすべてコンピューターの中の仮想世界だったのだババァーン、と言われても、それでも、何とかなってきた。けれど、ここからは違う。
予言者に小難しいことを言われるし(そりゃ自信もなくなるよ)、裏切り者は本性を現し始めるし、エージェントまでいる。船は氷山にぶつかるし、意地悪な婚約者に盗人の濡れ衣を着せられて、想い人との仲にヒビが入る。おいおい、沈む船で手錠って、それ殺人だぞ! 遠路はるばる雪山を歩いてきたってのに、姉貴にも拒否されて、氷の魔法が直撃するしさ。なんて日だ!
仲間割れが起きたり、本領を発揮し始めた敵が主人公を苦しめたりするセクションが、ここに当たる。ここは基本的に、良くないことが起こるセクションだ。主人公に敵対する人物、敵対する事象が、ここからリベンジしてくる。
ここまでに前振りしていた悪い出来事の種が芽を出し、主人公を苦しめ始めるのも、ミッドポイントを過ぎてからになる。『マトリックス』のサイファーのような露骨な裏切者もそうだし、主人公が懸念していた悪い出来事も、ここから忍び寄ってくる。『タイタニック』で「救命ボートの数が足りない」と、ローズが指摘した懸念が、現実のものとなってくるんだ。
ほかにも、魅力的な敵キャラを強く描きたかったり、その強大な力を主人公を苦しめる形で示したいときは、絶好のタイミングだ。ここは主人公を苦しめていいセクションであり、敵が強くてもいい場所なのだ。
『お楽しみ』では、主人公が優勢だった。対して、『迫りくる悪いやつら』では、敵が優勢になる。今までは敵が少々強くても、主人公の自信が粉々に砕かれたり、「もう駄目だ……」と凹んでしまうことはなかった。でもここからは、だんだんと辛くなってくるのだ。
『ダイ・ハード』が、わかりやすいかもしれない。ブルース・ウィリスは『お楽しみ』で、テロリストに一杯食わせて、いい感じに敵を倒していく。彼は「まったくちくしょう、なんでこんな目に……」とぼやきながらも、なんだかんだテロリストに勝っていき、警官を呼びつけることに成功する。その上、テロリストの計画の急所となる、爆弾の起爆装置まで手に入れるのだ。
けれど、『迫りくる悪い奴ら』では、テロリストたちも本気で、ブルースを始末しにかかってくる。やっとの思いで呼んだ警官は吹き飛ばされ、FBIに至っては邪魔ばかりしてくる。第二幕前半の時と同じようにブルースはぼやくが、その声はどこか辛そうだ。いい加減疲れてきたし、いつまで裸足でいればいいんだ? まともな救援は、まだ来ないのかよ!?
ブルースは終始、自分の意思で嫌々戦っている。けれど第二幕の前半と後半で、その雰囲気は異なっている。テロリストが本気を出してきて、余裕綽々とはいかなくなってきたのだ。
テロリストの親玉役、アラン・リックマン(『ハリー・ポッター』シリーズの、スネイプ先生役)は今までブルースにやられっぱなしだったが、ここからはその頭脳や胆力、悪党っぷりを本格的に見せつけていく。
アランが狡猾な悪党なのは、第一幕で、魅力的なシーンをいくつも使って描写された。
けれど、第二幕前半でいきなり彼が強すぎるのは、主役のブルースを食ってしまう。観客は、コテンパンにされて立ち直れないブルースを見に来ているのではなく、酷い目に遭いつつもブツブツ言いながらテロリスト相手に立ち回っていく姿を見に来ているのだ。
だからこそ、第二幕前半の悪役は、負けてもよくて、反対に、第二幕後半から、パワーアップして、主人公を叩き潰しに来る。今までも全力だったが、今まで以上に全力だ。旗色が悪くなり始め、ここでの負けは主人公のメンタルにも響く。
『マトリックス』で、第二幕が始まっていきなり、ネオを予言者の所に連れていって、「救世主ではない」と言われたらどうだろうか。状況設定を終えて、これからだってときに、浮かない顔のネオを見せられることになってしまう。エージェントまでやってきて、状況はどんどん悪く……って、辛いシーンばっかりじゃないか。楽しいシーンはどこにあるんだ?
確かに、ネオが対決すべき、深刻な困難は沢山ある。けれど、それをやるのは第二幕前半じゃなくて、後半に入ってからなんだ。
そして本当にやばいのは、この先だ。
11.すべてを失って(70%)
最悪だ。状況は、物語が始まる前よりも悪くなった。もう最悪と言っていい。マジサイアクだ。物語が始まって以来の絶不調だ。
モーフィアスは捕まるし、仲間はバタバタ死んでいく。氷の魔法は益々強くなるし、ローズとは離れ離れ、このままじゃ船と一緒に海の底だ。
『すべてを失って』では、物語が始まって以来、最も悪い状態になる。下手をしたら、第二幕に入る前、いや、物語が始まる前よりも、状況が悪い。「絶不調」の状態になるのが、このセクションだ。
スナイダーはここのセクションには、「死の気配」があることが多いと言っている。誰かしらが死んだりするのだ。指導者ポジションの、オビ・ワンとか。
別に、難しい話じゃない。よくよく思い出すと、よくある話なんだ。指導者が息を引き取る直前とか、死地に赴く直前、主人公に言うんだ。「お前は十分、力をつけた」って。よくある話だけど、アツい展開だ。
指導者は頼りになるが、いつまでも頼りにしてはいられない。誰かにおんぶにだっこでは駄目なのだ。そして主人公は、そのとき始めて、自分の力を自覚する。
スナイダーは、「じゃあ、オビ・ワンのように指導者がいない映画だったらどうするの? 誰かが死ぬような物語じゃないときは?」という疑問にも、答えてくれている。
とにかく、『すべてを失って』には、何かしら死に関すること、死を象徴するようなものを付け加えよう。必ず上手くいく。例えば枯れた植木鉢の花、金魚の死、大好きだったおばあさんの死、なんでもいい。最終的な効果は同じだから。
(snyder 2005: p. 131)
相変わらずスナイダーは断定的だけれど、ぼくはこれを、もう少し緩めに解釈している。直接的に死に関することが描写されていなくとも、主人公が捨て鉢になってしまっている姿は十分、何もかもを失った姿を表していると思う。
今まで頑張ってきた主人公が、「あーあ、もう、嫌になっちゃったな」なんて言ったら、それはもう、死と直接的な関りがなくとも破滅的だ。
でも今はまだ、ここまでやってきた世界を壊し、新しい世界へ入るための準備だ。どうにもならないからこそ、後には引けない。第一ターニング・ポイントの時のように、幕を跨ぐには明確な意思がいるのだ。主人公には、どんどん後がなくなっていく。
12.心の暗闇(70-80%)
『すべてを失って』で、ホントマジやってられないくらい悪くなった状況で、主人公は打ちのめされる。神も仏もない!
『すべてを失って』ですべてを失った主人公がどんな状態か、ここで描かれる。夜は夜明け前が最も暗いのだ。
『NARUTO』の第一話(少年ジャンププラスの公式サイトで、1話が無料公開中だ)を読んでみてほしい。イルカの両親を殺したのは、ナルトの中に封印された妖狐だった。イルカ先生だって、本当は、自分のことが憎かったのだ。そうに違いない。自分はどうすればいいんだ?
「あの化け狐が力を利用しないわけがない。あいつはお前が思っているような…」
イルカとミズキのやり取りを聞いて、ナルトは思う。
「ケッ、やっぱりそうだってばよ! ホラな…。イルカ先生だって、本心では俺のこと………」
まさに心の闇だ。ナルトだけでなく、イルカの心の闇、この物語の闇でもある。
すべてを失ったところから、心の闇まで表に出始めるのがこのセクションだ。
けれど、徹底的に打ちのめされて、その先で始めて解決を見出す。心の闇、人には言わない心の深い部分を、イルカは口にする。
「けどナルトは違う。アイツは…、あいつはこの俺が認めた、優秀な生徒だ。…努力家で一途で…、そのくせ不器用で誰からも認めてもらえなくて……あいつはもう人の苦しみを知っている……。今はもうバケ狐じゃない。あいつは木ノ葉隠れの里の……、うずまきナルトだ」
スナイダーは、心の暗闇は、悟りのセクションだと言っている。徹底的に打ちのめされて初めて、人は解決策を掴むのだ。
自分を認めてくれた人が近くにいた。ナルトはそれを知った。心の暗闇を超えた先に、解決策があったのだ。
『タイタニック』でもそうだ。意地悪な婚約者の策略で、ジャックはもう生き残れないのがわかってしまった。ローズはそのことを知らないが、けれど、二人の仲は、かつてないほど強く引き裂かれようとしている。これが今生の別れになるのだ。けれど! 追い詰められたからこそ、ローズは思い直すのだ。ジャックと離れたくない、その気持ちに、追い詰められたからこそ気づいた。
『アナと雪の女王』でもそうだ。凍えてしまいそうな中、命の危機に瀕している。アナの命が危ういのはもちろんのこと、オラフが火で溶けてしまおうとするのも、印象深い。雪と火と温かさ。どことなく破滅的だ。
しかしその果てに、事態の解決策を見つけ出す。魔法を解く、アナを救うには、真実の愛が必要なんだとね。真実を愛を知るパートが、ここを起点に始まる。
80%目にしてようやく、「はっ」と、主人公は解決策に至るのだ。そしてここからが、逆転の始まりだ!
13.第二ターニングポイント(80%)
心の暗闇で極限まで追い詰められた主人公は、とうとう解決策を得る。そして、それを実行する意思を示すのが、第二ターニングポイントとなる。第一ターニングポイントと同じように明確な意思のもと、主人公は幕を跨ぐ。物語は、新しい世界へ突入する。
『NARUTO』では、落ちこぼれで誰にも認められないナルトの世界を描く段階が終わって、その先の世界へ入る。イルカ先生が自分のことを認めてくれている。それならもう、やることは一つだ。誰かに認めて貰えていたと知ったナルトがこの先どうなるのか、そういう世界に入った。迷いはない、あとは敵を倒すだけだ!
『マトリックス』でネオがプロットポイントⅡで自分を信じることを選択した時、BGMが切り替わっている。なんだか前向きで、「これからだ」って感じの雰囲気の曲じゃなかったかな。実際そうなんだ。
ネオが「誰かに言われたり言われなかったりするから、ヒーローをやったりやらなかったりする」という世界は終わった。ここからは、自分を信じると選択したヒーローの世界だ。軍の管理するビルに正面突破を書けるなんて無謀だ。エージェントは強敵だ。けれど、こっちだって、自分を信じることに決めた世界に、脚を踏み入れたんだ。明確な意思を以て!
心の暗闇を超えた主人公は、第二ターニングポイントでエンディングに向かって舵を切る。答えは出た。あとは、それを確かめる姿を見せるだけだ。
ちなみに、ここはサブプロットとメインプロットの合流点でもある。『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』でベバリーがペニーワイズにさらわれたのは、この典型的なパターンだ。サブプロットでベバリーと仲良くなったことと、ベバリーがさらわれた結果ペニーワイズと再び戦うことを決めたこと。この二つは関連している。
ヒロインやサブプロットで出てきたキャラクターに、ヒントをもらって解決策を見つけ出すのもこのセクションだ。
ぼくが大好きな海外ドラマ『Dr.HOUSE』では、サブプロットでよく、くだらない症状やしょーもない悩みを持った患者が、診察してもらいにやってくる。もちろん、ハウス先生はまともに相手をしない。病気の原因は大体、仮病か浮気か、もっとばかばかしい何かだ。小馬鹿にして追い返すか、一目見ただけ病名を当てて、皮肉交じりに処方箋を出して終わる。
この物語のメインプロットは医療ミステリで、物語の本来の目的は、こんなしょーもない外来とは別の、原因不明で死にかけた患者の病名を突き止めることだ。物語が進んでいき、推理してきた病名に基づく投薬もしたのに、症状が全く改善しない。患者の体力は刻一刻と失わていく。万策尽きたか……。
そんなときにも、外来の診察はしなきゃいけない。その時、サブプロットで出てきたお馬鹿な患者がまたやってくる。「まだ治ってなくて……」ハウスは皮肉交じりに言う。「そりゃそうだ、それは君が……」そうだ、そうじゃないか。こういうことだったのだ。
一見無関係に見えた人物からヒントを得て、ハウスは事態の核心を把握する。サブプロットとメインプロットの合流は、こういう形で行われる。
それはヒロインから喝を入れらることであったり、サブキャラが何気なく放った示唆のある台詞だったりする。そういうものが、プロットポイントⅡで合流する。サブプロットとメインプロットが1つになるのだ。
14.フィナーレ(80-100%)
こうして、悪い奴らは一掃される。少しづつ悪い奴ら、事象を始末していって、主人公が勝利を収める。ここまでこれば、やることはもう明らかだ。残った敵、未解決の事柄について結果を見せていくだけでいい。
主人公と子供との仲はどうなった? 怪物は倒した? 二人は生き残った? 彼は救世主だったの? 船と一緒に沈んだ宝石はどこに? 残っている要素を片っ端から拾って、解決させていく。
すでに主人公は変化していて、迷いはない。ひたすら実行あるのみで、変化した主人公の力を見せていくばかりだ。
『マトリックス』はやはり好例で(いやぁ、ほんとうにサンプルとして優れている)で、第三幕に入った後のネオは、もうやりたい放題だ。完全武装したビルに踏み込んでも、モブの軍人なんかに負ける気がしない。何なら、エージェントの放った弾丸を避け、倒すことすらできる。実際どうだろう、第三幕に入ったネオって、観ていて負ける気がしないよね。
「だって映画の尺的にも、もう終わりが近いし、そういう雰囲気だし……」その通り。そういう雰囲気なんだ。もう悩んでいるセクションは終わったし、ここまでに、負けたり凹んだりをやっておいたんだ。もうネオは負けない。スミスにどれだけ拳を打ち込まれても、もう、迷ったりしない。
そういう雰囲気じゃない。何故なら文脈はもう解決に入っていて、「解決という雰囲気」なんだから。
BS2でも第三幕についての内容が少ないように思えるかもしれないけれど、逆にこれは、第三幕が簡単であることの表れだ。
「第三幕に何を書けばいいの?」と、今はまだ思うかもしれないが、書き始めるとね。やることが多いことに気づくんだ。つまり、やることがはっきりしてるってこと。
今まで積み重ねてきたものの中で、まだ解決していない問題について、きちんとシーンで解決を見せられるように並べていかないといけないし、悪い奴らは、全部倒してしまわないといけない。あなたが第一幕、第二幕と設定して、主人公と戦ってきた大ボス、中ボス、主人公を取り巻いてきた問題(子供との不仲とか、別居中の妻との仲とか)も、第三幕だけで全部解決しないといけないんだ。
『マトリックス』を例に挙げよう。
完全武装のビルに乗り込むなんて大丈夫? モーフィアスを助け出せるの? ネオは救世主なの? トリニティやモーフィアスは現実に帰れるの? スクイッディの脅威をかわせるの? エージェントに勝つなんて可能なの? トリニティが受けた、予言とは何だったの? ネオが本当の自分に目覚めれば、弾丸を交わすまでもないって、具体的にどういうこと?
ぱっと思い浮かぶだけでも、これだけの未解決事項がある。これらについて、映像的なシーンを作って、回答を示さなきゃいけない。ただ「ネオは救世主だったのだ」とナレーションを入れるだけでは駄目で、これをシーンとして見せる必要がある。やることがいっぱいだ。
けど、忙しいことを喜ぼう。やることがいっぱいということは、何をすればいいか明確ってことだ。
だだっ広い白紙の上に放り込まれたのが、今までの状態だ。Minecraftで、いきなりクリエイティブモード(建築を楽しむモードで、死んだりしない)をやらされても、何をすればいいのかわからない。けれど、サバイバルモードならまずやることは、「死なないために、夜を凌ぐ家を作ること」だ。他にも、食料の確保をしなきゃいけない。必要だから、やるべきことも明確になっている。
やらなきゃいけないことがあるということは、何をやればいいか明確であるということでもあるのだ。
あなたの物語でここまで解決していないことについて、すべてこのセクションで応える。何を書くべきかは、ここまで積み上げたあなたの物語が教えてくれる。
15.ファイナル・イメージ(100%)
ここは最終シーンだ。ファイナル・イメージは、オープニング・イメージと対になっていることが多い。これは、結構感じている人が多いんじゃないかな。
オープニングの状態から、どう変化してこの最終シーンにたどり着いたのか。その変化を、明確に描くようにと、スナイダーは言っている。
『マトリックス』のエンディング、『タイタニック』のエンディングは、結構露骨だよね。電話で始まった物語が電話で終わり、沈没船で始まった物語が沈没船で終わる。
対応するものを見せていても、その内容は正反対だ。対比のような関係にあって、オープニング・イメージでやった内容が物語をやる前、ファイナル・イメージでは、やった後という具合になる。
ただし、対比を必ずしも入れろという話ではないということは、注意してほしい。露骨に見えてしまうのをあなたが気に入らないと思うのなら、それでOKだ。『ダークナイト』のように、始まりと終わりが明確な対比になっていなくとも、素晴らしい物語は沢山ある。
ちなみに、対比こそないが、『ダークナイト』の場合、バットマンが正義のヒーローでない、泥をかぶった存在となることで、今までの世界からの変化、物語をやった後の状態を見せているという点で、スナイダーの言うことは、合致している。
そういう点では、別居中の妻に飛行機で会いに行く『ダイ・ハード』のオープニング・イメージも、仲良くタクシーに乗る姿と、比べて、変化の前後を描いているともとれる。
『ディープ・ブルー』ではオープニング・イメージで、主人公であるタフガイがエサ候補(つまり、水着・金髪・酒を携えた若者)をサメから助け出す。彼はサメ使いで、自分の腕前に自信を持っている。しかしファイナル・イメージで「サメは本当にあの3匹だけか?」と言われると、水面から足を上げている。改めて、サメの恐怖が身に染みたのだ。これもある意味、変化した姿だよね。
まあ、ファイナル・イメージについて、あなたが過度に意識する必要はないよ。自分の物語がどう終わるのか、あなたもう決めているはずだし、今までたくさんの物語に触れてきたあなたのことだ、特に意識しなくとも、こういう形のエンディングになっているだろうからね。もしエンディングが思いつかないようなら、その時、ここに書いてあったことを思い出してみよう。
BS2をざっと倣って
一気に説明したが、これがBS2だ。スナイダーはこれをテンプレートとして使うことを推奨している。実際、その破壊力は相当なものだ。
けれど一番良い使い方は、三幕構成と組み合わせて使う、アタッチメントとしての性質だと、ぼくは思っている。
次回は、これまで学んだ要素とBS2をどう組み合わせるかについて学んで行こう。それじゃ、またね!