6.5心理描写に対する誤解と、「説明するな描写せよ」の正体

CARDステップ

「心理描写」。これもまた、言葉ばっかり広まって、実態が曖昧な言葉の一つだ。

心の中を地の文で長々と説明するのが心理描写だと思ってるなら、それは大間違いだ。かといって、「読者はアホだから説明してあげなくちゃ。それが今の創作の流れ」では、ちょっと短絡的過ぎる。

上と似たようなパターンで、「○○したことを悩む」とか、こういうカードの書き方をしないため、というのがある。

例えば、『マトリックス』のカードを書く時、「ネオが、自分が救世主でないことについて悩む」と、カードに書いたとする。これはマズイ。

このシーンを映像的に考えたとき、ある問題が発生する。ネオが悩むとして、「ネオが悩んでいる間、画面には何を映していればいいんだ?」という問題だ。

ネオが自分が救世主でないことについて悩む。それは良い。けれど、どうやって悩んで、悩んでいる間、何を見せるか。これを作者が知らないのは非常にまずい。

真っ暗な画面に「俺は救世主じゃないんだ……」とネオの心の中を、モノローグで流し続ければいいのだろうか? やりたいのなら止めないけれど、コレジャナイって感じなら、他の道を探すのが良い。

悩むにも、映像を通して見せないといけない。それが映画というメディアの制約であり、同時に強みでもある。ネオが救世主でないことを悩む姿を、画面に見えるものを通して観客に伝える必要があるのだ。

救世主でないからこその悩みというは、第二幕後半で、嫌というほど描写されている。モーフィアスに言い出せなかったことも、エイポックに「良いお告げがあったことを祈るよ」と銃を渡された時も。そして、現実に戻る順番をトリニティに譲った時も。いろんな出来事が、ネオの悩みを追い掛け回すようにして襲いかかる。

『タイタニック』でもそうだ。ジャックと一緒になりたいローズの気持ちを、真っ黒な画面にモノローグで語らせたりはしない。

キャルという敵対者、家の事情を語る母親。キャルは明確な敵対者として描かれているし、母親も家の事情を語りながら、別の方向からローズを悩ませる。「思い出をみんな売ってしまえと……?」こんな風に言う母親を、無視はできない。けれど……。こんな風に、画面上の動き、シーンの動きを通して、ローズの悩みは、十分に描写されている。

極めつけは、女の子が、膝にハンカチを載せるシーンだ。何を語るわけでもない、女の子が母親に言われるまま、行儀よくハンカチを膝に乗せる姿。これを見て、ローズは何を思うだろうか? 観客は、ここまでこの物語が積み上げてきたシーンから、このシーンの意味を、どう想像するだろうか?

ローズは、過去の自分と、これからの自分をこの光景から想像した。それが、観ている方にもわかる。そして次のシーンで、ジャックのところに行って言う。「考えが変わったの」と。心の動きを見せるのに地の文やモノローグを使って、長々と語る必要はどこにもないのだ。

これが、「映像で見せる」ということだ。映像で見せることで、よりスムーズに、スリムに、情報を伝えることができる。映画はこうやって、登場人物の心の動きを巧みに描写しているのだ。これこそが「説明するな、描写せよ」だ。

あなたがもし、登場人物の悩みを画面の動きなしで語ったことがあったなら、その悩みを映像で見せた場合を想像してほしい。

映像で語る以上、地の文で悩みを流していくわけにはいかない。そう考えると、必要なシーンがいくつも見えてくるはずだ。

あなたは何枚、書くべきカードを見落としていたことになるだろうか? こういうことを繰り返していくと、シーンの数はどんどん足りなくなっていく。反対にこういうところに気づけば、それだけで物語のページ数は膨らむのだ。

これは別に、ページ数を水増しをしろ、横着をしろってわけじゃない。というか、シーンも作らずに地の文で済ませる方が、よっぽど横着だ。

シーンを作り、それをどこに入れるかを探るために、パラダイムやBS2を学んで、その物語の専用の、ワンオフの指針を作った。それを使わずに、本来シーンで見せるべきキャラクターの一面を地の文でちゃっちゃと済ませる方が、よっぽど横着だ。

こんな風に、映画の手法でシーンを作るという事は、読者の頭に映像を浮かべさせる上でとても役に立つってわけ。

もしあなたがカードを書く時、そのカードから具体的な映像、どこで、何をしているのかがイメージできないようなら、それは赤信号だ。いざ執筆の段階になって「内容がないよう」なんて言いたくないだろ? そのカードの中身はどうなっているのか、映像をよく考えてみよう。

そしてまず、心理描写という厄介な言葉から解放されよう。正体さえはっきりしていれば、有名な言葉のわりに、大したことをやっていないことがわかる。気負う必要はないのだ。長々と心の内を書くだけではなくて、心の動きを映像にする。

読者は確かに厄介に思えて、あれこれ説明してあげないといけない相手だ。けれど、動きによって生まれた心の動きを、きちんと察知してくれる。読者は賢いんだ。

もしあなたが視覚的でない、映像的でないモノローグで主人公の悩みを表したいと強く思っているなら、それでもいい。書きたいものに勝る理由なんてない。

けれど、何となくでシーンを映像的でないものにしてしまうのは勿体ないし、ちょっと危ないことなんだ。一度、考えてみてね。

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