市場の話に近づくことになるが、映画脚本のシーンの作り方を小説に使うことの利点について、述べておこう。ここには、現代の娯楽の環境が関係している。
小説は文字だけのメディアだ。以前も少し触れた通り、文字が印刷されたページに映像は映らないし、紙から物理的に、声や効果音が出るわけではない。それを頭の中で起こすのが、小説というメディアだ。
しかし、他のメディアは違う。ゲームも、アニメも、映画も、漫画も、視覚表現という強みを生かしている。そして視覚表現を、読者はあらゆるところで目にしている。
映画の手法は、視覚表現の手法だ。視覚表現に慣れた人たちに向かって、視覚表現の手法で物語を見せていく。
縦書きの小説に慣れた人は、WEB小説でも縦書きの方が読みやすい。そういう人のために、縦書き表示という機能がある。慣れた形式の方が読みやすいのだ。同じように、見慣れたやり方で物語を見せてくれた方が、読者としては読みやすい。
それに、映画脚本のやり方でシーンをつくるということは、常に、映像で見せるということを意識することになる。これは大きい。
例えば、「謎ポエムは避けろ」という「創作べからず」にしたって、「謎ポエムは映像が無いからまずいのだ」と、考えることができるようになる。
謎ポエムがなぜ駄目なのか? と聞かれて、「そもそも謎なことを言うな」と切って捨てるは簡単だ。けれど、「映像も無しに色々言われたって、読んでる方はつまらない」という原因も、ここにはあるんだ。
読者は文章から文章を思い浮かべるんじゃなく、文章から映像を頭の中に思い浮かべるんだ。なのにいつまで経っても、文章が文章のまま、映像になってくれない。これは退屈だ。
映画脚本は、映画になる前に何人もの人が目を通す。映画にするかどうか決める人のところにその脚本が行く前に、その人に近い人が読む。それで面白かったものが、偉い人に回される。
そういう中、映像を想起させられない脚本というのは、チェックを通らないのだ。映画を作る元の素材に映像化を考慮していないシーンがあっても、そんなの困ってしまう。第一、映像にならない物語って面白いのだろうか。
ハリウッドの手法に触れる前、色々と苦しんでいた時期に、ぼくもカード方式を試した。今のように、定義やルールなんてものはないままでね。
カード1枚分の内容を書き終わった時、ぼくは嫌な予感がした。カード1枚分書いたページが、すべて主人公の思考や説明で終わっていて、映像的な動きが、まったくなかったのだ。動きを失った物語を、その頃のぼくは、再起動させることができなかった。
当時は、この違和感の正体を言語化する術を持たなかった。けれど、これじゃいけないということだけは、何となくわかった。どうにもできなかったけどね。
映画脚本は、映像がないと、映画の形をとることができない。映像がないっていうのは、映画脚本にとって、死活問題なんだ。
だからこそ、映画脚本の考え方というのはシーンを映像で表すことに長けているし、自然と映像で表すための考え方が身につく、ってわけ。
視覚的な要素を想起させることが重要になっている現代の小説の事情と、映画脚本が映像を想起させることを重要視している背景。こういう状況だから、「今、読者の頭の中の画面には何が映っているか?」を考えることは、とても大切なんだ。
視覚的にシーンを考えることが、次に書くべきシーンを見失わないことに繋がる。かつ、読者を楽しませることもできる。いいことづくめだ。