1-2.「物語を構成すること」に対する3つの誤解と、テンプレートの話

「物語を構成する」 =テンプレ? BASICステップ

具体的な方法の話に入る前に、構成を学ぼうとする上で障害になりがちな、心理的なハードルを取り除いておこう。精神論的な話はあまり好きじゃないのだけれど、「構成するとは、創造性を制限することではないのか?」とか、「構成とはテンプレではないのか?」って疑念は、誰にでもある。

「構成の手法を創作に持ち込むことは、自身を『テンプレ物書き』に貶める悪魔の取引ではないだろうか?」ぼくは昔、そう思っていた。けれど今では、それは大きな誤解であり、長編の完成を自分から遠ざけていただけだったと、はっきり後悔している。おかげで、沢山の時間を無駄にしてしまった。

構成について知れば知るほど、構成は何も制限しないことがわかる。まずはそれを払拭して、楽しく学べる下地を整備しておこう。

誤解1:三幕構成はテンプレートである

さて、まず最初に、この話をしておかないといけない。「三幕構成は、構成のテンプレートではない」って話。

どこでこんな誤解が生まれたかは知らないけれど、もう一回言おう。「三幕構成はハリウッド脚本のテンプレートじゃない」し、「つまらない物語を無理やり何とかする後付けの魔法」でもないし、「これに従えば面白くなる」なんていう意味不明なオーバーテクノロジーでもない(そんなものが本当に存在するなら、一番喜ぶのがハリウッドの映画会社だろう。二番目に喜ぶのが、ゾンビ映画とサメ映画の脚本家だ)。

論理立てて説明するにはいくらかの知識が必要になるから後に回すけれど、「三幕構成とはハリウッド脚本のテンプレートである」っていうのは、大きな誤解だ。まずこれを知ってほしい。ひとくくりにするのはあまりに乱暴だ。だって、プレステはファミコンじゃないだろ?

三幕構成は確かに、ハリウッド映画業界が理論化したものだ。けれど、それを無根拠に「ハリウッド映画のように似たような物語を量産するテンプレート」だと、結び付けていないだろうか?

※一応言っておくと、ハリウッド映画業界ほど「どこかで見たような物語」が嫌いな業界はないらしいよ。ハリウッドの偉い人達はいつも、「誰も見たことが無い物語」を求めているんだって。

「構成することは創造性を制限する悪いことで、似たり寄ったりの作品の中に自身の作品を埋没させる行為ではないか?」

こういう恐怖は、あなたも一度は感じたことがあるんじゃないかな。けどそれって、「構成」という言葉と、「テンプレ」って言葉を、どこか混ぜてしまっていることに起因していないかい? もしくは、それらと「ハリウッド」という言葉をさ。

大丈夫、心配いらない。創作は深く広くて、手法を身に着けた程度で魅力を失うほど、チープな営みじゃない。

三幕構成が「テンプレート」と呼ぶのが適切でない理由は、それを説明できるまで座学が進んだら、改めてちゃんと話をする。だから今のところは「構成はあなたの創造性を制限しないし、あなたの物語をテンプレートに当てはめる行為ではない」ということを、覚えておいて。

誤解2:構成は物語を制限する

これも誰が言い始めたんだろうね。構成が物語の独創性を制限するというのも、大きな誤解だ。

だって考えてもみてよ。一体どうして、物語を構成することや事前に準備しておくことが、物語を制限するんだ? 何があなたの創造性を邪魔するんだ?

途中で創造的なひらめきがあったら、それを取り入れてやってみるだけじゃないか。キャラが勝手に動き出したら歓迎すればいいし、アドリブを効かせたいならそうすればいい。元々用意していたルートから外れたら、その都度ちゃんと修正を入れる。この手間を惜しまない。それだけの話なんだ。

事前に物語を構成し、準備してから書き始めたとして、書いている最中に何のひらめきもないと、本当に思う? あなたのキャラクターたちが原稿用紙の中で動き回る中で、あなた自身の脳内で「こうしたほうが面白くなるかも!」って気持ちが、一度も湧かないなんてこと、本当にあると思う? 大好きなキャラクターととっておきのアイデアを形にしている最中、自分が頭の中のシーンを文章に変換するだけの、無感情な執筆マシーンになってしまうと?

別に、「どうしよう……、準備しておいた展開と違う方向へ行ってしまうそうだ……」となっても、一回やってみればいいんだ。で、それに応じて、後の展開にも修正をきちんと加える。上手くいかなければもとに戻す。手間を惜しまず、作品にとってより良い方を選択してあげればいい。構成は、このアドリブを柔軟に受け止めてくれる。

むしろ、「予定通り作品を書き進めるのに都合が悪いから」と、より面白くなる可能性を握りつぶしてしまう方がよっぽど、あなたの創造性を制限してしまっていると思う。

「構成上仕方なく」なんてもっともらしい理由をつけて、あなたはお気に入りのシーンをカットしたことはないだろうか? もしそのシーンが、適切な構成を行えば残せたものだったとしたら? それを読者に見てもらえたとしたら、作品の評価はどうなっただろうか?

構成を使っても、執筆は楽しいままだ。むしろ、自由が利き、沢山書けて、今までよりも楽しくなるよ。

構成する派VS構成しない派の構図は成立しない

これはたまに見かける議題だけれど、正直これは、そもそも対立しないと思っている。

だって、構成してから書き始めようが、構成せずに筆の進むまま書き始めようが、最後はどんな作品ができたかだろ? 「こんなに素晴らしい物語を、何の準備も無しに書くなんて!」って褒めてもらえるかもだけど、それだけだよ。それによって作品の評価が上がるわけじゃない。最後は「何ができたか」だ。

構成しない派はそれで作品が上手いこと書けてるんだからそれでいいし、構成する派は構成することで作品を書けているんだからそれでいい。別に揉めるような話じゃないんだ。だって各々が書けていて、うまく行っているならそれで良くないかい?

いかにも対立しそうな構造だけど、これは単なる言葉のマジックだ。電子書籍派と物理書籍派は確かにいるけど、この2つが争う理由なんて、そもそもないだろ? 両方使えばいいだけだ。

構成する派の人もアドリブを取り入れていいのはさっき話した通りだし、構成しない派の人だって、困ったときは構成の手法を使ってみればいい。それで書ければOKだし、より面白い作品ができれば万々歳。対立しないし、わざわざ対立する必要もない。

書けないことだけが問題で、書きたい物語がちゃんと書けてるなら、こんなのどっちでもいいんだ(別の話だけれど、「キャラが勝手に動く派」と「そうでない派」にも当てはまると思う)。

構成する派であれ、構成しない派であれ、書けさえすれば問題はどこにもない。書けなくとも、もう片方を試したり、別のアプローチを試すだけだ。だから、わざわざ対立する理由はどこにもないんだ。

誤解3:三幕構成は長い物語には使えない

「三幕構成は90分~120分の映画向けの手法であって、長期連載やボリュームのあるシナリオには使えない」という誤解も、解いておかなくちゃね。

ハッキリ言うけれど、三幕構成を使うのに、物語の長さは全く関係ない。なんでかっていうと、突き詰めると三幕構成っていうのは「序盤・中盤・終盤」のことでしかないから。

詳しい話は説明するのに必要な要素を知ってから改めてするから、まずはこれからする話で、イメージを掴んでほしい。

『NARUTO』は読んだことあるかな? 読んだことなくても、名前は知ってると思う。では質問。

「『NARUTO』の単行本72巻分、全700話という視点から見た時、『序盤・中盤・終盤』が無いと思う?」。

全71巻に対して、中忍試験編は序盤ではないだろうか? その中忍試験編にも、序盤・中盤・終盤はなかっただろうか? 我愛羅とリーの戦いにも、序盤・中盤・終盤はなかっただろうか? そのうちの1話の中にも、序盤・中盤・終盤はなかっただろうか?

序盤・中盤・終盤というのは、どんな物語にもあるんだ。「その境目がどこか?」を判別するのが難しいだけでね。

全体としてどれだけの長さの物語になっても、スケールの違う「序盤・中盤・終盤」が存在し、最後は1つ1つのシーンを順番に見せていく。量が増えただけで、やることは一緒だ。

長期連載であっても、ボリュームたっぷりのシナリオであっても、「序盤・中盤・終盤」が存在する。それはつまり、三幕構成そのものがそこにあるってことなんだ。

ここについては、必要な事前知識がそろった段階で改めて話をする。今は「超長編や長期連載にも同じように三幕構成を使える。だから安心して学んでいい」ってことを覚えておいて。

「物語を構成する」とはどういうことか?

何のために構成をするのか? それはあなた自身が「次に何を書けばいいか」を知っておくためだ。

「読者を感動させるための構成」、なんてのはありゃしない。構成は、煮ても焼いても食えない物語を味付けする魔法じゃないんだ。読者を感動させるのはあなたが思いついているキャラクターやアイデア、物語の内容であって、構成はそれを「面白さを損なわずに伝える手段」でしかない。

書いている途中に新しいシーンを閃いたり、新しい設定を入れたくなたら、入れてみればいい。登場人物が自発的に動くなんて大歓迎だ。あなたの目的は予定通りに書くことではなく、より面白い物語を完成させることなんだから。

エヴァンゲリオン初号機を思い出してほしい。エヴァが暴走しても、碇ゲンドウはあたふたしない。なぜかというと、彼が事態を掌握できなくなったわけではないからだ。初号機はパイロットの手を離れたが、放っておいても使途を倒してくれる。自体が彼の手を離れたわけではない。だから、碇ゲンドウは動じないし、見ているだけだ。もし必要があれば、ちゃんと指示を出す。それが司令官としての責任だ。

思いがけない閃きが訪れることは、事前に準備してから書き始めていても歓迎していいのだ。暴走する初号機と同じように、勝手に面白くなってくれる。

物語を構成するというのは、テンプレに無理やり当てはめることでもなければ、登場人物を操り人形にすることでもない。

「あなた自身が自分の物語について監視し、完成させられるように責任を持つこと。そして、できることをやっておくこと」。これが「物語を構成する」ということだ。

あなたのキャラのおっぱいが全員Kカップで眼鏡をかけていても、ぼくは何も言わない

ぼくは今後色々な話をしていくけれど、基本的に、あなたの物語の内容について「○○を書くべき」とか、「○○を書くべきではない」という話をする気はない。

「○○モノは時代遅れだから」とか、「○○系のキャラは受けが悪いからやめろ」とか、そういう話は構成には関係ないからね。それに、書き手の内面に土足で踏みこむような真似をしたくない。

書いたものが受けるかどうかなんて、最後は出たとこ勝負だ。『明日に向かって撃て』を書いたウィリアム・ゴールドマンもこう言ってる。

「Nobody Knows Anything.(本当のことなんて誰もわかっちゃいないのさ)」

だから、ぼくはあなたの書く作品について、構成の視点以外のからものを言うことは殆どないと思ってもらっていい。

あなたの登場人物がみんな眼鏡で、おっぱいがKカップ以上あっても、それがなんだって言うんだ? 登場人物がみんなおっぱいが大きくて眼鏡だからって、それが原因で長編が書けないなんて、あると思う? 

物語の内容やキャラクターそのものは、物語の構成、完成とは関係ないんだ。だからぼくはあなたの中にあるキャラクターや物語について、何かを言う気はない。この点、身構えないでいてもらえたらと思うよ。

ぼくがする話は「当てたいなら○○を書けばいい」とか、「この感動を生んでいるのは○○が」とか、「ここでカタルシスが」という系統の話ではなく、「あなたの書きたい物語を長編という形にするためには、何が必要か」という話だ。

構成はあなたの創作を制限する型ではないし、ぼく自身も、そういう話をする気はない。だから安心して、構成の手法を知ってもらえたらと思うよ。