設定を、地の文で説明してはいけない。何故か? 退屈だからだ。
これまで口を酸っぱくして言ってきたように、読者が退屈だという現象はそのまま、書いているあなた自身を退屈にさせる(設定を書き連ねているのは楽しいかもしれないが、それは設定を言語化する中でハイになっているだけだ。読み物としての楽しさを味わっているのとは違う)。
また、設定は映像で見せる、という原則に従うことが、あなたの物語に、追加のシーンを与えてくれる。
『バイオハザード』では最初、設定をナレーションで語った。けれど長さとしては、あれが限界なんじゃないかと思う。『グリーンランタン』のレベルまでやってしまうと、明らかに長過ぎだ。ナレーション、つまり地の文での設定説明は、使ってもいいが、効果的に、かつ最低限にとどめないといけない。
例えば、『マトリックス』で、ネオが、人類が機械に支配されている現状を、モーフィアスに知らされるシーンがある。
あれをナレーションで説明してしまったら、『マトリックス』は、あそこまで面白くなっただろうか?
仮想空間の中で、現実正解の景色を見ながら説明されるというシチュエーションと、そこに展開される光景が、『マトリックス』における、設定面の面白さを生み出している。それは視覚的で、映像的だ。
せっかく設定があるのに、それを面白く見せるためのシーンを考えないのは、無自覚の怠慢だと思う。どうしてそんなに素敵な設定があるのに、シーンで見せてくれないんだ? そんな気分になるよ。
設定があれば、設定を見せるシーンが生まれる。それを積み上げていくことで、特に第一幕なんて、あっという間にパンパンになる。
お気に入りキャラクターの初登場シーンは、気合を入れたいだろう。同じように、気に入りの設定を見せる時に気合を入れるんだ。お気に入りでなくても、お気に入りなときと同じくらいのやる気でね。読者に見せるシーンは、すべてが楽しいシーンであるに越したことないんだから。
カードを書く上で、これは非常に重要になる。情報をシーンに変換しないと、地の文での説明以外、書くことがなくなってしまう。
そうなると映像が生まれず、物語を動かすことができず、何をすればいいのかわからなくなって、書けなくなってしまうんだ。そうならないために、設定は極力、映像で見せること。
第一幕で状況設定をやる、ってことに関連する話で、ここができていないと、特に第一幕で、書くことがなくなってしまう。
『マトリックス』で、「俺の名前はトーマス・アンダーソン。超ヤバイ級のハッカーだ。ハッカーネームはネオ。昨日、謎の女、トリニティに危険が迫っていることを知らされた。今日会社へ行くと、謎の電話と共に、その危険が現実のものとなった」とモノローグからスタートして、会社でエージェントから逃げ回るシーンから始めたら、そりゃ、第一幕がスカスカにもなる。
反対に言えば、『マトリックス』の第一幕がみっちり詰まっているのは、物語に働いている力、ネオの状況、生活について、それらの情報を、シーンに変換して見せているからなのだ。
今まで観た映画の中から、世界や主人公についての情報を、リストアップしてみるとわかる。その数は、思ったほど多くないんだ。
それは、映像と一緒に設定について説明しているからであり、映像と一緒に情報を明かすというメディアとしての制約のせいでもある。設定をシーンにしていくのは、そのくらい尺が必要になる。
設定を、映像、シーンで見せる。この考え方を使って、設定をシーンに変換していこう。シーン不足なんてこと、言ってられなくなるよ。あっという間に、カードが足りなくなる。
あなたの物語の設定を、すべてシーンに変換して、読者に伝える。あなたが読者に伝えたい設定は、いくつあるだろうか? その設定の数だけシーンが必要と思ったら、11枚というカードは、あまりにも少なく感じないかな。
忙しいことは良いことだ。やることが明確なら、やれば前に進む。どんなシーンを書いていけばいいのかわからないと、漠然と前に進むことすらできない。やるべきことがわかっているから、忙しくなる。忙しいのは良いことだ。楽しく、忙しがろう。