幕を跨ぐとき、主人公には明確な意思が必要になる。なんとなくで幕を跨いではいけない。
これは、スナイダーも「自分もやりがちだけど」といっている注意点だ。スナイダーはさらに、「主人公は必ず行動的でなければならない」と言っているが、これは、表現の差だろうと思う。どれだけやる気のない主人公でも、ゾンビに襲われたら生き残ろうとするだろう。
幕を跨ぐにせよ明確な意思がいる、とは、少し前でも話したけれど、「乗り気じゃない主人公を書くな」という意味ではない。毎日をけだるそうに生きている、そんな主人公でもいい。大切なのは、意思を持って幕を跨ぐことだ。
『ジョジョの奇妙な冒険』の第四部のラスボスとなる吉良吉影は、「毎日を植物のように静かに暮らしたい」と願っている。こういう人物でも、ちゃんと主人公になれる。
こういう時、平和に暮らしたい吉良吉影のもとに、何かしら、その平和を脅かすものが現れるのだ。勿論、主人公の仗助からすれば吉良は町に巣食う殺人鬼、悪そのものだが、吉良からすれば、仗助たちは平穏を脅かす敵でしかない。吉良は活動的ではないが、行動を起こす。
吉良は活動的ではないのに、なぜか? それは「今の、植物のように平穏で静かな暮らしを守るため」である。
物語は、リアクションだけでは成立しない。ある意味これは字面通りの意味であり、リアクションの後、アクションを起こせばそれでいいのだ。「平和で静かな暮らしを守るために、自分から行動する」。矛盾するようで、矛盾していない。ここには明確な意思がある。この意思が、行動的でない吉良が行動することの、説得力を生んでいる。
スラッシャー映画、モンスター映画なんて、その最たるものだ。誰が好き好んで、チェーンソーを持った殺人鬼に追い回されるだろう? たとえその殺人鬼から逃げのびるだけの物語にしたって、彼らは「生き延びたい」という明確な意思を持っているのだ。
名探偵が出てこない、一般人が推理するミステリを思い浮かべてみると、もっとわかりやすいかもしれない。どうして名探偵でもないのに、推理なんてしないといけないんだ? 「ぼくが主人公? それは作者であるあなたの都合でしょ!」。こんな風に、登場人物に言い返されてしまう。彼を無理やり動かそうとしても、乗り気じゃない彼は、中々動いてくれない。殺人現場は血だらけで、近寄るのもちょっと……。
そんな彼を説得しないといけない。警察が来ない。この中に犯人がいるかもしれない。犯人はまだ殺す気かも。証拠を握られる可能性があるなら、犯人も次の犯行を諦めるかもしれない……。
そうだ、犯人を牽制する意味でも、事件の推理をするというのはアリだ。これなら名探偵でない主人公だって、殺人事件の推理に乗り気になってくれる。なんてったって、身を守るためなんだから。ノリノリで殺人事件の推理を始める名探偵でなくとも、これなら、事件に積極的になるだろう。なぜ推理をするのか? それが結果的に、自分の身を守り、生き残ることに繋がるからだ。
なんとなくで幕を跨いでしまうと、そのあと、主人公の行動原理がわからなくなってしまう。これをやってしまうと、主人公がしたいこともわからないまま、第二幕に入ってしまうんだ。それは、ガソリンの入っていない車と一緒に、白紙の原稿用紙へ放り出されるということだ。
こうなると、お決まりのパターンに入る。無理やり書いたことによって生まれる、物語とキャラの乖離に耐えられなくなって、書くことができなくなってしまう。言語化していないと、「なんか違うんだよ」以上のことは、わからないのだけれどね。
「面白く書くための技術」をこんなところで紹介するのは、こういうことなんだ。自分の作品の、最初の読者は自分。そこで「なんか違う」となってしまうと、それ以上、身動きが取れなくなってしまう。「面白く書くための技術」というのは、読者、ひいては自分が納得するための書き方でもある。
「面白く書くための技術」は、そういう意味で、「完成させるための技術」に通じるところがあるわけ。