3-2.パラダイムの実用例『美女と野獣』

パラダイムの実用例 実写版『美女と野獣』 BASICステップ

物語を形作る3つの幕と文脈。エンディング、オープニング、プロットポイントⅠ、プロットポイントⅡ。プラス、インサイティング・インシデントとキイ・インシデント。これらの用語を学んできた。

今回の内容は、メールマガジンで以前配信した内容をベースにしたものだ。実写版『美女と野獣』をもとに、三幕構成がどう使われているかどうかを確認するとともに、「では実作では、パラダイムをどのように使うのか」の、より踏み込んだ内容について触れていくよ。

子供の関心を引き続けるディズニーの職人技、そこからぼくらが何を学べるかといった点もフォローする。さあ、ポップコーンを持って!

実写版『美女と野獣』の分析

娘を置いてパリへ行商に向かう父親。森の城へ迷い込み、不幸にも庭内の薔薇を摘み取ってしまう。父をかばいすべての責任を負ったハーマイオニーに対し、城の主、野獣が言い渡した示談の条件とは……。

本編はきちんと観てくれたよね(もちろん、『美女と野獣』の方だ)。

パラダイムを観ていくところから始まり、プロットポイントⅠ、プロットポイントⅡの根拠、各幕の文脈や、インサイティング・インシデントについても触れていく。最後までしっかり見ていってね。

では、分析していこう。

OP:美しい王子にかけられた呪い

■『美女と野獣』(2017)のパラダイム

物語は、美しい王子が開くパーティーと、彼にかけられた呪いから始まる。これはオープニングでありながらインサイティング・インシデントであるシーンだ。

ベルが野獣に囚われる原因を作り出し、野獣が呪いにかかることで、物語が前進するエンジンを入れている。最近の物語ほど、オープニングがインサイティング・インシデントを兼ねていることが多い印象を受けるね。

オープニングからプロットポイントⅠまではインサイティング・インシデントである野獣の呪いと、野獣がベルを捕えることになる経緯を見せている。OP~PⅠの空間は、「ベルが野獣に囚われるまで」と言い換えることもできる。

野獣はベルの父親を捕えるが、そこからベルと野獣の関係が始まったのは、呪いとそれを解こうとする家臣たちによるものだ。

PⅠ:父親の身代わりになるベル

■『美女と野獣』(2017)のパラダイム

プロットポイントⅠでベルは、バラを摘んだ罪で終身刑となった父の身代わりに、自分が囚われることを選択する。

これがベルと呪いにかけられた王子の関係の始まりとなる出来事であり、プロットポイントⅠである。まさしくここから、「美女と野獣の関係」についてのシーンたちが画面に映り始める。この物語はベルと野獣の関係の物語であり、ここから物語の本筋が始まるんだ。

反対にプロットポイントⅠより前は、野獣の背景やベルの人間関係、将来の悪者の説明などを行っており、「美女と野獣の関係」についてのシーンとは言えない。まだ二人は出会ってもいなくて、関係は始まっていない。

ここからはある種の「新しい世界」で、ベルは魔法の存在する世界に入る。当然のようにしゃべるアニメイト・オブジェクトの家臣たち、今までと違う野獣との新しい生活。これらはベルが父の身代わりに城に残ったことによって起こっている。

プロットポイントをよく「物語の方向が変わる」と表現したが、この見極めとして、「意思決定の瞬間」というのは非常にわかりやすい目印になる。

例えばここでベルが父親を見捨てた場合、野獣との関係に物語がシフトできないし、シフトしようがない。

ベルが父親を見捨てるような人物ではないことは、ここまでに十分描写されている。だからこそ、「物語の流れでそうなった」ように見えているだけだ。実際には、明確に方向性を選択している瞬間が存在している。

あなたが自分なりの『美女と野獣』を書こうとしたとき、「でも、自分の書く美女は、父の身代わりになるほど毅然としたキャラじゃないんだ」となるかもしれない。そういう時は別に、「キャラクターを捻じ曲げてまでそのシーンを書け」とはならないから大丈夫。

前提としてあなたは『美女と野獣』を書きたくて、その中には少しづつ関係を深めていく二人の姿がイメージされている。今しているのは、第一幕と第二幕のつなぎ目が何であるかってだけで、「なにがなんでも美女が父の身代わりになるシーンに着地させろ」ってわけではないんだ。

あなたの書きたい美女が父親の身代わりになるようなキャラじゃないのならそれでOKで、けど、第一幕の状態からあなたの考えていた二人の関係に至るまで、何かしらの橋渡しがあるはずだ。それを探せばいいってわけ。

Tips:点と空間

プロットポイントの前後で物語の内容は寒流と暖流のように分かれていて、プロットポイントⅠがはっきりするまで、その境目はあいまいだ。けれどプロットポイントⅠをはっきりすると、この二つの明確な境目を知ることができる。

「ある特定の点から、別の特定の点まで、何についてのシーンを見せているか」は、実際に物語を構成していくとき、非常に役に立つ。

例えば、「ベルが野獣に囚われてから」と「野獣との最初の食事まで」の空間は、何についてのシーンの集まりが画面に映っているだろう、という視点で該当部分を観てみる。するとこの空間では、「ベルが父の身代わりに囚われてから野獣との最初の食事までには、ベルの踏み入れた魔法の世界(アニメイト・オブジェクトの家臣たち)」が描かれていることがわかる。ここを見つけるのが肝だ。

「2つのシーンの間は、何に関連したシーンの集まりか?」という視点は、長編を書くときのキーとなる。

これがわかると、「元々思いついていた、ベルが動く家臣たちを目にして驚くシーンはどこに入れよう?」とか、「書きたいと思っている、魔法で晩餐会の準備がされていくシーンはどこに入れよう?」とかが、一発で判明する。

反対に、部分的にシーンが抜けている場合は、「ベルが城に囚われてから、野獣と最初の晩餐までは、どういう言葉についてのシーンの集まりだろう?」と考えることができる。

「そうか、新しい世界のルールを見せて、まず家臣たちと仲良くなって……、野獣と食事をする前に、その辺のことはやっておかなくっちゃ」と、気づけば、後はどんな映像でそれを見せるかを決めるだけだ。つまり、「何のシーンを書けばいいか」という抜けを、逆算して導き出せる。これで一丁上がりだ。ほら、もう次に進める。

点と空間、これは一種の極意で、軽くこの考え方ができるだけでも「どこに、何を書くべきか」を知るのが一気に楽になるよ。

PⅡ:ベルを開放する野獣

■『美女と野獣』(2017)のパラダイム

プロットポイントⅡは、野獣がベルを開放したシーンになる。これは、過去にメールマガジンから特設記事を読んだ人には、「あれ?」と思われる部分だと思う。

以前ぼくは、この物語のプロットポイントⅡを、「野獣を助けに城へ戻るベル」と分析した。けれど、それが誤りなことが分かった。だからこれは、訂正版のプロットポイントⅡということになる。

※フィールドも昔、『チャイナタウン』のミッドポイント(後のクラスで扱う要素だ)についての分析を、誤ったことがあったそうだ。ワークショップや講義の中で何度もサンプルに使っていた中、ある日ふと、間違いに気づいたのだという。フィールドに倣い、また、筋として、ぼくもこの誤りをきちんと訂正したい。

野獣がベルを開放し、歌の中でベルを待つことを決める。野獣がベルを開放することはつまり、野獣が愛することを知り、変化した証拠でもある。美女と野獣の関係は、野獣が愛することの知ったことで、一旦決着するのだ。

ぼくが過去に「ベルが城に戻る」とした所は既に第三幕に入った後のことだった。ベルは村人に囚われ、扇動者に連れられた暴徒は野獣の城に向かっている。確かに、状況はどんどん悪くなっている。状況がまだ悪くなり続けている。これは、ぼくが以前の分析で、「まだ解決に入っていない」と判断する根拠にもなっていた部分だった。

けれど、今いるこの世界は、野獣が愛することを知った世界だ。野獣はベルのためを思って、ベルを行かせた。愛することを知らなかった野獣が愛することを知り、その結果どうなるかを見ていく。ならばその起点は、野獣がベルを開放したことなのだ。野獣がベルを開放したからこそ、ベルもまた、野獣の元へ戻った。ベルが城を出て行ったのではなく、野獣がベルを開放した。こう見るべきだったんだ。

こういう観点で、かつてのぼくの分析は、誤りだったと言える。野獣が「愛すること」を知ること。ここに焦点を当てるべきだったんだ。

第三幕に入った段階で解決しなければならないのは主に「ベルは父を救えるのか?」「ベルは野獣を救えるか?」と「野獣たちの呪いは解けるのか?」の3点だ。が、主となるのは「ベルは野獣を救えるか?」だ。

第三幕では二人とも、呪いを解くために頑張っているわけではない。呪いが解けたのはあくまで結果であって、二人はまた、お互いが一緒にいられることを願って行動している。

第二幕の世界で存在感を放っていた呪いも、腹を決めた二人の前では些細なことだ。人間でも獣でも、二人の気持ちはもう変わらない。それがここまで描かれてきた物語であり、第三幕ではもう、物語の解決を見せるばかりだ。

野獣の心は変化した。二人の心は決まり、後は何物にも二人を引き裂けないことを証明する。それは暴徒と化した村人であったり、意地悪な扇動者であったりする。けれど二人は負けない。

二人は負けない、そんな雰囲気が、映画から漂ってこなかったかい? この映画がディズニーってことを差し置いても、「ここからはどんな苦難があっても立ち向かっていき、必ず勝つ」という雰囲気だ。

それを作っているのが、野獣がベルを開放し、それを活け入れたあの瞬間であり、第三幕の文脈だ。ここを「物語がそういう流れで」とか、「そういう雰囲気だから」と曖昧にしてしまうと、創作において人知の及ぶ数少ない領域の理解を放棄することになる。

ベルはきっと、父も野獣も救い出す。この確信を与えているのは第三幕の文脈だ。プロットポイントⅡからは二人の恋の解決、野獣が愛することを知ったらどうなるかを描くのだ。

「ここから雰囲気が変わったな」というシーンは、それを契機に文脈が変化していることが多い。「ここからは扇動者の策略でベルと野獣の関係に亀裂が入るシーンの集まりを見せますよ」という背景が、「ここからは、野獣が人を愛することを知ったラどうなるかというシーンの集まりを見せますよ」という背景に切り替わっている。

この変化をあなたはこれまでも「雰囲気」として感じ取っているんだ。それを言語化すると、こういう風になるわけだね。

ED:お城でダンス

■『美女と野獣』(2017)のパラダイム

ベルは野獣を救い、悪い奴は倒され、呪いも解けた。そしてあのシークレット(本編を観よう!)も明かされて、物語の「未解決」だったものはすべて解決した。ハッピーエンドだ! イエー!

(余談だけれどあの後、ベルが戻るという行動が野獣の生存に影響を与えていないと、「ベルが城に戻る必要あった? 見に来ただけ?」と気になってしまうかもしれない。物語の内容そのものに干渉する話だからあまり触れたくないけれど、もし「なんか変だ!」と感じるときがあったら、主人公の選択が結果に影響を与えたかをチェックしてみると良いよ。特別な力を持たない主人公の場合などで、発生してしまうことがある。)

「物語はエンディングに向かって動く」とはこういうことで、プロットポイントⅠも、プロットポイントⅡも、エンディングありきで決まる。エンディングが何であるかによって、プロットポイントの判断基準そのものが変化するんだ。

ぼくらが学ぶべきところ

さて、パラダイムの分析は終わったけれど、まだまだ続くよ。ぼくらは分析屋ではなく書き手だ。この分析を実作に使う方法を学んでいかないとね。

今日のところはまず、『美女と野獣』を再視聴しながら、この記事と見比べてみてほしい。

重ね重ね言うけれど、必ず本編を観ること。サンプルとして扱った映画を観る、テキストと見比べるというのは、構成を学ぶ上で絶対に必要だ。ひいては、構成を学び長編を書けるようになることに繋がる。必ず守ってほしい。

ベースとなる話を済ませて、次はいよいよ、このパラダイムをどう活用していくかって話をしていくよ! それでは、また次回!